2001年3月3日 スペイン王国 マドリー自治州 首都マドリー
リーガエスパニョーラ2000−2001シーズン 第25節 エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ |
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レアル・マドリー | 2−2 | バルセローナ |
6分:ラウール 36分:ラウール |
得点者 | 35分:リヴァウド 69分:リヴァウド |
監督 | |||
ビセンテ・デル・ボスケ | ロレンソ・セラ・フェレール | ||
背番号 | 先発選手 | 背番号 | 先発選手 |
25 | カシージャス | 35 | レイナ |
2 | ミチェル・サルガード | 2 | レイツィハー |
4 | イエロ | 3 | フランク・デ・ブール |
18 | カランカ | 12 | セルジ |
3 | ロベルト・カルロス | 4 | グァルディオーラ |
6 | エルゲラ | 8 | コクー |
10 | フィーゴ | 11 | オーフェルマルス |
8 | マクマナマン | 21 | ルイス・エンリケ |
24 | マケレレ | 10 | リヴァウド |
7 | ラウール | 18 | ガブリ |
9 | モリエンテス | 9 | クライフェルト |
交代 | |||
14 | グティ | 7 | アルフォンソ |
17 | ムニティス | 14 | ジェラール |
16 | シャビ |
第1〜2話はこちら
サンティアゴ・ベルナベウ、朝10時過ぎ
地下鉄の「サンティアゴ・ベルナベウ駅」を出ても、周辺は想像していたよりも多くの人でごった返していました。
エル・クラシコともなればチケット売り場には長蛇の列ができているだろうことはあらかじめ予想はしていたのですが、まさかこれほどとは、というのが僕の正直な感想です。
目抜き通りのパセオ・デ・ラ・カステジャーナと交差するコンチャ・エスピーナ通りは午前10時の段階で既に封鎖されており車の出入りができなくなっており、車道にはマスコミを始めとする人、人、人の波。
各ラジオ局は朝からベルナベウ周辺にどのぐらい人がいるのか、見込みの来場者数がどれぐらいになりそうなのか、などを大声でレポートしています。
どう見てもチケット売り場に続く列が見当たらなかったので念の為にチケット売り場へ向かってみましたが、普段一般用のチケットを販売している窓口はシャッターがおりていて、その隣には身なりのいい紳士淑女たちが笑顔でチケットの受け取りに来ているのみ。
予想通りの展開だったので特に驚くこともなく、僕はサンティアゴ・ベルナベウのまわりをうろつきながらオスタルの親父が言っていた「11時」を過ぎるのを待つことにしたのです。
ホルヘ・バルダーノ
2001年3月当時、レアル・マドリーのオフィシャルショップは、コンチャ・エスピーナとプラサ・デ・ロス・サグラードス・コラソーネスの角にあるショッピングモールの中に入っており、そのモールの1階にはいつもあまり人の入っていないカフェテリアがありました。
試しに覗いてみるとやはりその日もガラガラで、季節は3月とはいえまだ寒い外で11時を待つのも嫌だった僕はそのカフェテリアでコーヒーを頼んで時間を潰すことにしました。
オフィシャルショップに続々と人が入っていき、その中にはスペイン人ではない人達も混ざっているのが見えます。
やはりこのエル・クラシコを見に来る外国人ファンも多いのだということを改めて実感する一方で、果たして彼らはチケットを手に入れることができているのだろうかという素朴な疑問も僕は感じていました。
そもそも僕はスペインに来るまでスペインのチケット販売事情を知りませんでしたから、当然他の国でもどうなのかは知らないわけですが、日本でも当時のサッカー雑誌などに観戦ツアーの広告は載っていたので、おそらくスペインにいるエージェントなどを通じてなり旅行会社を通じてなりでチケットを入手すること自体は他国でもできたのでしょう。
その事に気づいてから、自分でもその手段を模索すればよかったとうっすらとは思ったものの、これから自分が試そうとしていることもそれはそれでネタとしては語り継げるものになるのかもしれない、などとぼんやりと考えていたのです。
そんなことを考えながらコーヒーを飲んでいるうちに、僕はあることに気が付きました。
目の前のテーブルに座っている男性にどこか見え覚えがあるような気がしてきたのです。
彼のテーブルと僕のテーブルを挟み、ちょうど僕の正面に座る格好になっていたその男性は、高そうなグレーのスーツでピシリと決め、右手でMARCAを眺めながら左手でコーヒーを飲んでいました。
撫でつけられた少しチリチリのポマード頭に、少ししゃくれた下顎。
たまにテーブルにやってくるウェイターと何度か言葉をかわしている様子を見ているうちに僕はハッと気が付きました。
その人物こそ、当時のレアル・マドリーにおけるスポーツディレクター。
元アルゼンチン代表のホルヘ・バルダーノだったのです。
当時のスペイン代表FWラウール・ゴンサーレス・ブランコを17歳でトップチームに引き上げデビューさせたバルダーノは、ラウール以外にもビクトル・サンチェス・デル・アーモやホセ・エミリオ・アマビスカなどを抱えたチームを率い、1994−1995シーズンにはヨハン・クライフのバルサを抑えてリーグ優勝を実現。
その後バレンシアの監督を経た後に2000年7月にレアル・マドリー会長に就任したフロレンティーノ・ペレスに誘われる形で当時のレアル・マドリーでスポーツディレクターの職に就いていました。
バルダーノといえばキャリアのハイライトは1986年メキシコ・ワールドカップの決勝戦でしょう。
アルゼンチン対西ドイツ(当時)の間で戦われた決勝でバルダーノは1得点をあげているのですが、その得点シーンは今思い出してもうっとりするほど美しいディエゴ・マラドーナとの連携によって生まれたものでした。
僕が生まれて初めてしっかりとワールドカップの試合をじっくりと見たのは86年大会が初めてでしたから、バルダーノのゴールは2001年当時でも詳細に思い出せるものだったのです。
ビーゴのような小さな町であれば週末のクラブやレストラン、ショッピングモールの中で選手に出会うことなど特に珍しくもありません。実際にバライードス周辺のバルやカフェテリアではしょっちゅう選手に鉢合わせることがありましたし、別記事「【サラゴサ】日本代表MF香川真司、サラゴサへ2年契約で移籍」
でも書いたように監督と世間話をすることすらありました。
しかしレアル・マドリーほどの超ビッグクラブの関係者と、ビーゴとは比較にならない大都市であるマドリーで鉢合わせることなど僕は想像も想定もしていませんでしたし、期待することすらしていませんでした。
セルタの選手であればどのように声をかけるかとか、いつだったら迷惑にならないかなどということも考えられるのですが、他クラブの関係者となると話は全く別です。
当時の段階で1年以上近くにいたセルタの関係者と違い、レアル・マドリーは面白そうな試合のある時にしか僕の興味を引かない存在であり、そもそも僕はマドリーに住んでいませんでしたから関係者とファンの距離感も全くわかっていませんでした。
セルタの選手・関係者であればこういう時でも普通に話しかけられるのですが、僕は正面で足を組んだままでもシワひとつ付きそうにない高そうなスーツに身を包んだバルダーノを凝視しながら、これは話しかけてもいいタイミングなのかどうかをずっと測りかねていたのです。
すると次の瞬間、まだ若そうな1人のウェイターがノートとペンを持って申し訳無さそうにバルダーノの隣にやってきて、何事かを話しかけました。
おそらくサインを頼んだのでしょう。
果たしてこういう場合にバルダーノはどのような反応をするのか、僕は注意深く観察しました。
ちょうどその1年ほど前、「【体験記】バレンシアーノはカタルーニャの夜空に轟く(2)」の記事で書いた通り、僕は元バルサのロナルド・クーマンが似たような状況でファンからの写真撮影を無下もなく断っているのを目の前で見ています。
正直なところを言えば、できればバルダーノにはクーマンのような対応をとってほしくないと思いながら僕はその若いウェイターとバルダーノを見つめていました。
ジーコやマラドーナ、プラティニやブトラゲーニョといった選手達が活躍していた僕の幼少期にワールドカップ決勝でゴールをあげたアルゼンチンの英雄が、ファンに冷たい態度を取ることを僕はできれば見たくなかったのです。
バルダーノは読んでいたMARCAからすっと目を離すと真っ直ぐにウェイターの目を見つめ、ウェイターに何かを言われるとMARCAを丁寧に畳んでからテーブルに置き、組んでいた足を崩してウェイターからノートとペンを受け取り慣れた手付きでサインを書いてからウェイターに渡し、最後に自分から手を差し出して握手をしました。
その光景を見た瞬間、僕は弾かれるように立ち上がってしまいました。
つまり、「これはいける」と思ってしまったというわけだったのです。
ところが立ち上がってバルダーノに向かいつかつかと歩み寄りながら、猛烈なスピードで回転する僕の脳みそにある一つのことが浮かびました。
「カメラも、紙も、ペンもないのに自分は一体何をしようとしているのか?」
と。
そう。僕は手ぶらでした。
荷物はオスタルに置いてきていましたし、そもそもこの2001年3月頃には、既に僕がスタジアムにカメラを持ち込んであれこれ写真を撮ることはほとんどなくなっていました。
ベルナベウまで来たのもチケットを探し求めてのことですし、まさかそのへんのショッピングモールにホルヘ・バルダーノがいて、正面のテーブルに座ることなど想像していたはずもありません。準備もへったくれもない状況の中で、気づくと僕の目の前でバルダーノは変わらず腰を落ち着けたままで、再び足を組んで静かに僕を見上げていました。
とはいえバルダーノは188cmの長身です。
「座ったまま見上げている」とはいっても、170cmに満たない僕とバルダーノの目線はたいした高低差のないものでした。
目の前までやってきて、何もせずに引き返すのもおかしな話です。
少なくともバルダーノは近づいてきたどこの馬の骨ともわからない東洋人が、彼自身を見知っていることに気づいているようでしたし、当たり前ですが僕も彼のことを(一方的に)よく知っていました。
「セニョール・バルダーノ、おはようございます」
なぜか僕はただの挨拶を口走ったのです。
バルダーノは少し驚いたような顔をすると
「おはよう」
とバリバリのアルゼンチン訛りで応えてくれました。
「僕が初めて見たワールドカップは86年大会なんです」
と僕はもはや完全に無意識で話を続けます。
「マラドーナからパスが出てきてあなたが決めたゴールのことを今でもよく覚えています。本当に興奮する美しいゴールでした。ブルチャガのゴールもですが・・・」
と僕が言うと、バルダーノはブルチャガの名前が出た途端に爆笑しました。
「ホルヘ・ブルチャガ!残念なことになってしまったが、彼は当時いい選手だったね!」
とバルダーノは相変わらず特徴的なアルゼンチン訛りで応えます。
ブルチャガは1993年のフランスリーグにおけるヴァランシエンヌとマルセイユを巡る八百長疑惑における主人公の1人となってしまっており、八百長発覚後に2年間の長期出場停止処分を受けるなど名声が地に落ちた選手としても有名になってしまっていました。
「ええ、もったいないと僕も思います。ところで、僕はカメラもペンも持っていないので写真撮影やサインなどをお願いしようと思っているわけではないんです。
ただ、目の前のテーブルにあなたがいると気がついたので、一言お話できればと」
と僕が言うと、バルダーノは
「君、随分スペイン語がうまいね。マドリーに住んでいるのかな?レアル・マドリーのファン?」
と、あろうことか僕に質問を投げかけてきました。
ここからが僕の気が利かないところでもあるのですが、なんと僕は馬鹿正直にこう答えたのでした。
「普段はビーゴにいます。セルタのアボナードなので。あなたの同胞のグスタボ・ロペスがプレーしていますよ。今日はなんとかエル・クラシコが見れればと思ってやってきたんです」
バルダーノは笑いながら「そうかそうか」と言いつつうなずき、
「グスタビート・ロペス!彼は正直ないい若者だ。私も現役時代にサラゴサでプレーしていたので、親近感を覚えるね。それにしてもセルタとはね(笑)それで君は、日本人?中国人?韓国人?」
と話を続けてきます。
そこで僕は少し驚いたのです。
スペインにいて東洋人が国籍を聞かれる時、多くの場合は「中国人?韓国人?日本人?」という順に「日本」が最後に来ることが多いのですが、バルダーノはなぜか日本を最初にもってきていました。
中国・韓国・日本の順に尋ねる理由は「中国=CHINA」「韓国=COREA」「日本=JAPON」というアルファベットの順序が影響していると聞いたこともあるのですが、実際には判然としません。
「日本人です。この試合を観に来るためにスペインで勉強してきたと言っても言い過ぎではないと思いますよ」
と答えつつ今更ながらのお世辞に近いことを言うと、バルダーノはまた笑いながら
「そうか、日本ね!わざわざ”遠いところ”から我々の試合を見に来るファンがいるのは光栄だ。マドリーを楽しんでくれ」
と続けて、僕に右手を差し出してきました。「話はこれで終わりでいいかな?」ということだと理解した僕は、しっかりと自分の右手で握手をし、自分のテーブルに125ペセタ(当時のレートで約90円)を置くと、店を出る前に「勝てるといいですね」とバルダーノにひと声かけました。
バルダーノは「そう願うよ」と片手を上げて返事をし、再びさきほど畳んで置いていたMARCAを開きかけているところでした。
バルダーノの右手は大きく、ものすごい握力のしっかりとした握手でした。
つづく
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