【体験記】春寒の午後9時、ベルナベウで(1)

La Liga情報

2001年3月3日 スペイン王国 マドリー自治州 首都マドリー

リーガエスパニョーラ2000−2001シーズン
第25節
エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ
レアル・マドリー 2−2 バルセローナ
6分:ラウール
36分:ラウール
得点者 35分:リヴァウド
69分:リヴァウド
監督
ビセンテ・デル・ボスケ ロレンソ・セラ・フェレール
背番号 先発選手 背番号 先発選手
25 カシージャス 35 レイナ
2 ミチェル・サルガード 2 レイツィハー
4 イエロ 3 フランク・デ・ブール
18 カランカ 12 セルジ
3 ロベルト・カルロス 4 グァルディオーラ
6 エルゲラ 8 コクー
10 フィーゴ 11 オーフェルマルス
8 マクマナマン 21 ルイス・エンリケ
24 マケレレ 10 リヴァウド
7 ラウール 18 ガブリ
9 モリエンテス 9 クライフェルト
交代
14 グティ 7 アルフォンソ
17 ムニティス 14 ジェラール
16 シャビ

王都の狂騒

リーガ・エスパニョーラの2000−2001シーズンは様々な意味で怒涛のシーズンでした。

7月末に突然発表されたルイス・フィーゴのレアル・マドリー移籍。

2000年10月21日にカンプ・ノウで行われたフィーゴ移籍後初のクラシコは2−0でバルサが勝利したものの、おそらく当時を知る人で試合内容を覚えている人はほとんどいないのではないでしょうか。

試合開催日の1週間前からスポーツ紙も一般紙も話題は「バルセローナのファンがフィーゴをどのように迎えるのか」ということばかりが語られ、昼のニュース番組ではスポーツコーナーではない一般ニュース枠でバルセローナの町がどのような雰囲気なのかを連日報道。

試合当日のSPORTは、見開き一面で中央にフィーゴの顔を印刷し、当時の移籍金と言われる100億ペセタ(約70億円)の数字を並べたうえで「PESETERO(=守銭奴)」と揶揄する記事を掲載。

見開きであるためその見開き面を取り出すと、100億ペセタの紙幣のようにも見えることから、2000年10月21日のカンプ・ノウにはスタンド中にこの紙面を掲げたバルサファンが溢れていました。

それは非常に興味深い光景で、つい3〜4ヶ月前までは近づいてくるフィーゴに拍手と声援を送り続けていたコーナー付近の観客たちは、「人はこれほどまでに憎悪を表情に表すことができるのか」と逆に感心してしまうほどの憎しみに満ちた表情でコーナーキックのために近づいてくるフィーゴに対して、知りうる限りの罵詈雑言を叫んでいたのです。

それとよく似た「人間の感情が作り出す力や波」のようなものを僕は1ヶ月後にア・コルーニャで味わうことにもなったのですが、もちろん10月21日の時点における僕はそんなことを知る由もありませんでした。

ウイスキーの空き瓶、コカ・コーラの空き缶、中身の入ったビール瓶や缶、ワインの空き瓶、コイン、何かの蓋、ジャムの空き瓶、丸めたアルミホイル、自宅にあったのであろう「いらない何か」、そして子豚の頭。

98,000人分の憎悪を乗せて、手に持てるありとあらゆるものが観客たちの手でフィーゴに向かって投げつけられ、テレビ中継の実況音声がかき消され音声マイクが割れるほどの大音量で98,000人が一斉に罵声を浴びせ、ブーイングをし、指笛を吹き鳴らしてたった1人のポルトガル人の男を糾弾していました。

それから半年。

2001年3月3日にスペインの首都マドリーで行われるエル・クラシコ第2戦を迎えるにあたり、マドリーの町は静かな狂騒に包まれていました。

MARCAやASのような「マドリー派」とも言えるスポーツ紙は、バルセローナを本拠とするSPORTやMundo Deportivoとは一線を画す高い格式を持っているのだ、とでも言わんばかりに努めて冷静な紙面づくりに終始しており、とは言いながら2000年10月21日にバルセローナのファンやバルセローナ寄りのメディアがどんな反応を示していたのかをこれみよがしにカラー写真付きで掲載し続けていたのです。

レアル・マドリーのファン達も、表向きは「リベンジマッチ」であるという雰囲気をおくびにも出さない感じを装ってはいたものの、いざテレビやラジオの取材を受けると口を開いて出てくるのはバルセローナのファンが行った「蛮行」を揶揄・糾弾し、挙句の果てにはカタルーニャ人の人格否定までをも始める始末。

いずれにせよレアル・マドリーとしてはバルサから見事にフィーゴを奪い取り、しかも2000−2001シーズンはチームも別格の強さを発揮しており、結果的にこのシーズンを優勝で飾るのですが3月の時点で優勝はほぼ間違いないだろうとの見方が大半を占めていました。

そのためマドリディスタ達にしてみれば「かわいそうなバルサがやってくる」程度の認識が多く、実際にフィーゴが抜けた穴を埋めきれないバルサは決して満足なシーズンを送れているとは言い難い状況が続いていたのです。

とはいえエル・クラシコはスペイン最大のサッカーイベントであることに疑いの余地はなく、マドリーやメディア、そして当事者たちには関係ない外野のサッカーファンからすればフィーゴの一件は「試合に華を添えるいい材料」として楽しみの一つとして認識されていました。

そんな静かな狂騒が渦巻く中で、僕は2000年3月3日を迎えることになったのです。

21世紀初頭におけるスペインのチケット事情

2001年は21世紀最初の年で、それはつまり3月3日のエル・クラシコも「21世紀最初のエル・クラシコ」であることを意味していました。

21世紀最初であることと、ルイス・フィーゴ移籍後初めてサンティアゴ・ベルナベウで行われる試合だということ以外はいつものエル・クラシコであることに違いはなかったのですが、とはいえこの2つの状況はマドリディスタ達やバルセロニスタ達にとって「いつもとは違う特別な何か」を感じさせるに十分だったのは間違いありません。

そしてそういった「特別な雰囲気」が漂う試合というのは、いつもどこでもチケットの入手が極めて困難になることを同時に意味していました。

2000年代初頭のスペイン観戦チケット事情

僕がスペインに住んでいた2000年代初頭、この世界には2019年現在ほどの優れたネット環境はありませんでした。

携帯電話ネットワークは3Gが始まるかどうかという時代。

オンラインショッピングの世界ではまだeBayなどが君臨しており、Amazonはアメリカの大手書店バーンズ・アンド・ノーブルやウォルマートなどから訴訟を起こされている最中でした。

スペイン国内ではやっと3G携帯電話の異なるキャリア間でEメールを使った連絡が可能になり始めたばかりで、SMSはかつての日本と同様に同キャリア間でしかやり取りできなかったため、連絡は基本的に通話が中心。

日本ではdocomoのiモードが流行しており、携帯インターネットの発達が進む中でチケットぴあなどを使ってオンラインで各種興行チケットを購入することが当たり前になりつつある一方、スペインでは全くその動きが加速していなかったため、これまでの記事で何度も書いてきたようにサッカーのチケットは「その町の、現地スタジアムで購入」というのが大前提でした。

当時ビーゴにいた僕は当然マドリーで行われる試合のチケットを購入することはできないため、セルタのアボナード(年間チケット保持者)仲間であるチュコというマドリー在住の友人にエル・クラシコのチケットについて尋ねてみることにしました。

彼の答えは

「マドリーもバルサも俺の人生には関係ないから知らん」

というそっけないもので、彼はマドリー生まれのマドリー育ちでありながらサンティアゴ・ベルナベウはおろかビセンテ・カルデロンにもエスタディオ・バジェーカスにも近づいたことがないと豪語していたのです。

他にマドリー在住の知り合いもいない僕にとって、唯一の可能性はいつもの通り現地に前日入りし、少ないチャンスにかけてサンティアゴ・ベルナベウに乗り込むことしかありませんでした。

外国人としての娯楽に対するセルタファンの疑問

3月3日のエル・クラシコを見るためにマドリーへ行くという話をした時、ビーゴの友人やバライードスで僕の周囲にいたアボナードのおじさんたちは誰も彼もが怪訝な顔をして僕に尋ねてきました。

「”そんなもの”をどうして見に行くんだ?」

そう。

彼らにとってエル・クラシコは注目の試合ではあるものの、本質的には「そんなもの」でしかないのです。

僕はフィーゴの件や10月の第1戦で起きた出来事、世界中でどれほど注目されているのかということを含めてエル・クラシコを現地観戦することがどういうことなのかこんこんと説明したのですが、僕の周囲のセルタファンからの反応は決まって100%次のようなものでした。

「たしかにそうなのかもしれないが、セルタの試合じゃないだろう」

では、興味がないのかと僕が尋ねれば彼らも興味はあるし試合も見るというのです。ただしテレビで。

わざわざエル・クラシコのためにマドリーへ行き、購入できるかどうかもわからないチケットのために旅費を払うのはバカバカしい。

どうせテレビでやるのだから、ワインとつまみを片手に悠々と自宅で見るのが一番いい、というのが彼らの主な主張で、そして常にトドメの一言は「それにセルタの試合じゃないからどっちが勝とうがどうでもいい」というものでした。

この点に関しては確かに僕もうなずけるものはあります。

例えばマドリーが負ければセルタの順位が上がる。

例えばバルサが引き分ければセルタの順位が上がる。

こうなってくれば試合結果に一喜一憂しながら「セルタに都合のいい結果をもたらしてくれそうな方」を応援するのでしょうが、根本的な話として僕はマドリーの勝利にもバルサの勝利にも興味がありません。

これは当時もそうですし、今現在も変わらないのです。

なかなか理解されづらいことですが、例えば2019年現在のバルサを見ていてメッシのプレーに驚嘆し、超絶技巧的なゴールを見れば喝采も送りますが、バルサの勝利を願っているわけではありませんし彼らが勝っても負けても正直いうとどちらでも構わないと僕は思っています。

つまり何が言いたいかというと、僕の中に「セルタ以外のチームの勝利を本気で応援する」という選択肢はないわけで、それは僕のみならず、僕の周囲のセルタファンも同様です。

そしておそらく大多数の各クラブのファンは多かれ少なかれ同じような感覚なのだろうということを、当時の僕は理解できていました。

ですから「どうでもいい」という感覚自体は理解できていたのですが、その一方で「スペイン人ではない外国人のサッカーファン」という立場からすると、せっかくエル・クラシコを生観戦できるチャンスがあるのだったらそのチャンスを手に入れてみたい、という願望があるのは事実だったのです。

おそらくこの「セルタファンとしての感覚」と「外国人サッカーファンとしての願望」のギャップが、スペイン人の(というよりビーゴ人の)セルタファンにはよくわからないものだったのでしょう。

少し種類や意味合いは異なりますが、日本国内における「日本代表ファン」と「Jリーグも含めたサッカーファン」との認識の違いが、このスペイン人の感覚に近いのかもしれません。

  • 日本代表の○○が好き
  • では○○がプレーするJリーグのチームは見るか?
  • Jリーグには興味がないから見ない

というような話が耳に入ってくることは2019年現在でもまだあったりしますが、Jリーグを見つつ代表も当然見るというサッカーファンからすると、「Jリーグがなければ○○は日本代表になっていないのだからJリーグに興味がないから代表の試合しか見ないというのはよくわからない」という感覚が、そうではないファンにはよく理解されないことがあります。

ただ、この点は単純にスペインと日本のケースを比較するのは難しいことは事実です。

以前書いた「【観戦記】ガリシアダービーでデポルファンに襲撃された話(2)」で僕は次のように書きました。

【観戦記】ガリシアダービーでデポルファンに襲撃された話(2)
「ガリシアダービーでデポルファンに襲撃された話」連載第2回です。ガリシアダービーの成り立ちやビーゴとア・コルーニャのライバル関係はどのように始まったのか?外国人ファンとしての残酷な気付きと合わせて紐解きます。

「セルタのファン」とは「なるもの」ではなく、「そうあるもの」であり、やめるやめないの話でもありません。

この男性と似たような境遇のビーゴ人にとって、セルタのファンたることは文字通り「人生の一部」であり、吸っては吐く「呼吸と同義」であり、それはある意味で「血」だと言いかえることもできるのかもしれません。

日本のサッカーファンが2019年現在のような形で生まれたのは、実質的に1993年のJリーグ開幕以降だと言っても過言ではないでしょう。

いわゆる「サポーター文化」と呼ばれるものが形作られ始めて今に至っているわけですが、おそらくその中で僕が上記で書いたように「サポーターである人」の割合は「サポーターになった人」よりも少し少ないのではないかと僕は考えています。

このあたりの話はもう少し掘り下げてみても面白いとずっと思っているのですが、それはまた別の機会にしておきましょう。

ガリシアからマドリーへ

とにもかくにも、なんとかエル・クラシコを生観戦できるチャンスをモノにしたいと考えた僕は、当初の予定通りマドリーへ向かうことにしました。

ビーゴからマドリーまでは電車かバス、あるいは飛行機なのですが当時大学生だった僕に飛行機を使って時間を買うという贅沢は選択肢にありません。

結局僕が選んだのはビーゴを夜中に出て、朝にマドリーへ到着する深夜の長距離バスでした。

深夜バスとはいえビーゴからマドリーまでは昼間でも9時間程度かかる距離。

試合は21時開始と決まっていたので、僕は以前にマドリーで泊まったことのあるプラサ・マジョール近くの安オスタルに電話して一泊の宿を確保し、金曜日の大学の授業終了後に荷物をまとめてバスに飛び乗りました。

この半年前にセビージャダービーを見に行ったときもチケットの確保が最優先課題だったわけですが、誤解を恐れずに言ってしまえば今回の難易度はセビージャダービーとはわけが違います。

【ラ・リーガ】セビージャダービーでベティコに護衛された話【まとめ】
「セビージャダービーでベティコに護衛された話」の全4話を一つの記事にまとめました。

当時とは種類の違う胸の高鳴りを感じながら、バスはビーゴを出てオウレンセを抜け、ポンフェラーダで途中乗車のために一時停車してからカスティージャ・イ・レオンに入り、あとはA-6号線を一直線にマドリーへ向かうルートへ入りました。

真っ暗なスペインの台地はどこまでも平らで、冬の終わりが近づいていることを示すように、荒野には徐々に木々が葉を茂らせようともしているように見えました。

つづく

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