セルタ・デ・ビーゴの新練習場「シダーデ・デポルティーバ・アフォウテッサ」が完成。
その竣工式の様子をお伝えするシリーズ第4弾です。
セルタのホームタウンであるビーゴと、新練習場「アフォウテッサ」が建設されたモスはガリシア州に属します。
それらガリシア州内の各市町村を束ねるのがガリシア州政府です。
今回は第5代ガリシア州政府首相、アルベルト・ヌニェス・フェイホーのスピーチを紹介します。
ガリシア州とは?
ガリシア州の概要
ガリシア州はスペインの北西部に位置する、スペイン国内第6位のGDPを誇る自治州です。
住民一人あたりの名目GDPは約20,700ユーロ。
2013年時点での自治州内人口はスペイン国内第5位を誇っています。
南側はポルトガルと国境を接し、東側はアストゥリアス州、そして南東はカスティージャ・イ・レオン州と隣接。
北側と西側にかけては総計1490kmにも及ぶ海岸になっていて、北はカンタブリア海。そして西は大西洋に面しています。
州都は「巡礼の道」で有名なサンティアゴ・デ・コンポステーラです。
ガリシアの海岸線は大小様々な入り江が複雑に入り組んだ形状になっていて、ガリシア語で「入り江」を意味する「Ria=リア」の複数形である「Rias=リアス」は、「リアス式海岸」の語源にもなっています。
年間を通して降雨量が多く、冬でも比較的温暖かつ湿気の多い地域であるため、州全体が緑の森に覆われ多くの川が走る自然豊かな土地がガリシアです。
歴史と言語・文化
新石器時代のものとされる遺跡なども発見されており、この地における人類の存在は相当な古代からあったとされています。
5〜6世紀ごろにかけてはグレートブリテン島から逃れてきたブリトン人と呼ばれる人々や、現在のアイルランドから渡ってきたケルト人たちの一派も入植をしており、歴史的にケルト文化圏の一部に数えられてきました。
7〜8世紀にかけてはイスラム教徒のイベリア半島侵攻に伴ってガリシアも征服されていますが、その後は旧アストゥリアス王国のアルフォンソ一世によって奪還されレオン王国、カスティージャ王国に引き継がれます。
11世紀にフェルナンド一世の死と共に王国は分割されますがすぐアルフォンソ六世によって再統合。
カトリックの巡礼路として現代でも有名なサンティアゴへの巡礼は9世紀ごろから既に確認されており、レコンキスタ(国土最征服運動)や9〜10世紀にかけてのノルマン人・ヴァイキングの侵攻に対する防衛戦と相まって、サンティアゴ・デ・コンポステーラはカトリックにとっての精神的な拠り所としての地位を確立していきます。
スペインには標準スペイン語とされるカステジャーノの他に3つの公用語が存在すると以前のブログ記事でも紹介しました。
「その他3つの公用語」の1つがガリシア語です。
ガリシア語はカタルーニャ語と比較すればカステジャーノに近く、そしてバスク語とはかけ離れた言語です(これは他のどの言語にも言えることですが)。
また、ガリシア語はポルトガル語と非常に類似性が高く、ガリシア南部のポルトガル国境に隣接するトゥイ周辺の住民は、頻繁にポルトガル北部の人々と往来を続けていることもあってガリシア語−ポルトガル語でのコミュニケーションを日常的に行っている現状があります。
日常的にガリシア語のみを使って生活する人の割合は50%前後だと言われていますが、ガリシア語の習得率そのものは民主化以降継続的に増加していて、現在では9割以上のガリシア人はガリシア語を習得していると言われています。
ガリシアの民族主義
スペインの多くの地域同様に、ガリシア人は自らがガリシア人であることに誇りを持っています。
ガリシア人同士の家族間では自然とガリシア語で会話を行うことも多く、ローカルテレビ局であるTVG(テレビシオン・ガリシア)での放送は基本的に全てガリシア語です。
しかし例えばバスクやカタルーニャのような先鋭的な民族主義政党が、ガリシアの独立を叫び煽るような運動はほとんど育たず展開もされてきませんでした。
これはガリシア人の気質やもともとの生活様式が大きく影響していると言われています。
ガリシアは現代でも漁業や養殖漁業、そして農業が盛んです。
州内最大の港湾都市であるビーゴではビーゴ湾で牡蠣の養殖が行われていますし、ガリシア内陸部では畜産や農産物の栽培も盛んに行われています。
伝統的にガリシア人は保守的でありながらも生きる術を探すための開拓精神に溢れた人々だと言われており、政治的な観点ではその保守性が色濃く出る特徴がありました。
例えばある意味で歴史上もっとも名が知られたガリシア人の1人でもある「独裁者」フランシスコ・フランコはガリシア人でした。
ガリシア北部のフェロール出身のフランコは1938年〜1975年までスペインの国家元首として君臨し、スペインを支配することになりましたが、フランコが決起した背景と情勢をよく見てみるとフランコが単なる急進的な革命家・活動家ではないという見方もできます。
角度を変えてみてみると、1930年代後半のスペインではカタルーニャの民族主義を始めとする民族主義的左派勢力が拡大しており、既存の保守勢力との対立を深めていた時期でもありました。
フランコは陣営としては反乱軍という位置づけになっていますが、単純化して見てみると保守勢力側の人間でもあったのです。
このように、スペインの歴史の中で最も表舞台に立つ時間が長かったガリシア人であるフランコでさえ、言葉のうえでは「保守派」だったという事実は、意外と知られていません。
ガリシアにおいてはカタルーニャやバスクのような急進的な民族主義的左派勢力はそもそも育ちにくいメンタリティーがある、というのが通説として語られているのです。
「大きな変化を望まない」ガリシア人のメンタリティー
ここまで述べたようなガリシア人の政治的保守性は、言うまでもなく現代にも続いています。
1977年に行われた41年ぶりの民主的選挙において長きにわたる独裁体制にピリオドが打たれ、スペインは民主化しました。
民主化以降のガリシアではほとんどの期間を中道右派が主軸として実権を握っていて、1982年にガリシア自治州政府が樹立されて以降、5人が就任した州首相の座は3人の保守政党「Partido Popular=国民党」が担っています。
現在の第5代ガリシア州首相はこの国民党=PPのアルベルト・ニニェス・フェイホーは2009年に就任しており、12年目の長期政権です。
第3代ガリシア州首相マヌエル・フラガ・イリバルネも15年という長期政権で安定していたことも、ガリシア人が政治的に大きな変化を好まない気質を持つということの現れなのかもしれません。
そんなガリシアにおいて、セルタ・デ・ビーゴというクラブはホームタウン以外の町に自前の練習場を建設するという大きな変化を起こしました。
そしてその竣工式において第5代ガリシア州首相アルベルト・ヌニェス・フェイホーは何を語ったのでしょうか?
第5代ガリシア州首相アルベルト・ヌニェス・フェイホーのスピーチ
ご参集の皆さま。王立スペインサッカー連盟会長ルイス・ルビアレス殿、セルタ・デ・ビーゴ会長カルロス・モウリーニョ殿、ガリシアサッカー連盟会長ラファエル・ロウサン・アバル殿セルタ・デ・ビーゴのキャプテンの方々、また監督以下全てのスタッフの皆さま。
この場にお招き頂いたことを深く感謝いたします。
ガリシア州政府としてこの歴史的な日を共に迎えられたことを大変誇りに思います。
今日というこの日はガリシアサッカー界にとって歴史に残る一日であり、言うまでもなくガリシアスポーツ界全体にとっても歴史的な日として記憶に残っていくでしょう。
副首相を含む州政府首脳、トゥイからビーゴに至るまでの行政関係者の皆さま、セルタの各ペーニャ代表者の皆さま。
このパンデミックのさなかにあってもここまで述べた関係各位の招待を実現してくださったモス市長を始めとする市関係者の皆さま、特に「有限実行」を体現する活動を続けられてきたモス市長と市政首脳陣の皆さまに多大な感謝を申し上げます。
さて。
今日は大変冷える1日です。コートが手放せないような気温の1日を我々は迎えているわけですが、しかしこの場に集まった人々の団結と成し遂げた事業の持つ意味を考えると、心が熱くなります。
この場で成し遂げられた事業モデルは唯一無二のものです。ここで成し遂げられた偉業こそが私達を包むコートのようなものだと言えるでしょう。
ご参集の皆さま。
サッカーは我々にとってスポーツ界の王とも呼べる存在であり、サッカーがここまで大きな存在たり得ることを他者に説明するのはとても、とても難しいものです。
私がサッカーというスポーツを見ていて好きなものの1つは、サッカーというスポーツそのものが人を奮い立たせる何かを持っているということです。
例えば先日逝去したディエゴ・アルマンド・マラドーナは、1つの国、大陸全てを勇気づけ奮い立たせる偉業を成し遂げました。
我々の世代がディエゴ・マラドーナのプレーを見ることができた幸運は何物にも代えがたいものだと言えます。
実現はしませんでしたが、彼が16歳の時にセルタ・デ・ビーゴもマラドーナに入団をオファーしました。
最終的に彼はイタリアのナポリでプレーすることになり、旗は違うものの同じく空色のシャツを身にまといヨーロッパを席巻することになったのは周知の事実です。
セルタの旗と空色のシャツがマラドーナによって輝くことは残念ながらありませんでしたが、しかし彼が世界を手に入れてから30年後、セルタも空色のシャツをまとってヨーロッパリーグの準決勝まで進むことができました。
あの時のセルタは我々が覚えている、あの輝ける「エウロ・セルタ」を思い起こさせる素晴らしいチームだったと思います。
人々がガリシアの州内でも州外でも、口々にセルタの名を叫んでいたあの時代です。
そして現在、クラブ経営陣はこの「アフォウテッサ」と名付けられた練習場を2017年から続けれた壮大なプロジェクトとして完成させました。
「アフォウテッサ」という言葉は、人のあり方を意味する言葉です。
恐れない。危機や困難に立ち向かう強い心。
王立ガリシア言語アカデミーはそう定義しています。
皆さん、計画は遂行されました。バライードスのピッチから離れたところであっても、アフォウテッサという言葉はガリシアにおいては諦めなければ何事も実現可能であることが示されたのです。
この練習場はパンデミックという未曾有の困難のさなかに生まれました。
我々ガリシア人にとって大きな試練でもありましたが、この計画が実現したことはガリシア人はいかに困難な状況であっても偉大なことを成し遂げることが可能だという証明でもあるのです。
我々ガリシア人社会が持つ人格の堅固さがなければ、パンデミックの8ヶ月間に直面することは今よりはるかに困難であったでしょう。
ガリシア人の性質を持つがゆえに、我々はパンデミックとの戦いを続けることができるのです。
我々誰もが日常を取り戻したいと願っています。
そのためには定められたプロトコルを守り尊重することが必要です。
プロトコルに従えば、我々はこのウイルスと共存することが可能になるでしょう。
ガリシアのスポーツ施設においては合計70以上のプロトコルが各競技団体により定められており、対象となるスポーツ施設の中には当然のことながら、ガリシアサッカー界の現在と未来を生み出すセルタの施設も含まれます。
モウリーニョ会長自身が口にしていたことがあります。
「スポーツは安全でなければならない」
それは真実であり、安全でないものはスポーツであるとは言えません。
だからこそ、我々は初期からマスクをし、検査を行うことを徹底してきました。
安全対策の一貫として、セルタのフベニールのようにディビシオン・オノールに所属するクラブは遠征をせずにプレーすることだけを許可しました。
そのセルタフベニールは今日これから、デポルティーボとのダービーに臨みます。
今後行われるフベニールのダービーは州政府にとって様々な意味で未来を見通すべきものになるでしょう。
個人的にはプリメーラ・ディビシオンでセルタとデポルによるダービーを見てみたいとは思いますが、残念ながらそれは現在叶いません。
しかし数年後に再び実現しないとは誰にも言い切れないと確信しています。
この練習場は間違いなくセルタの未来を確実なものにすると同時に、ガリシアサッカー界の未来をも紡ぎ出すものです。
セルタはガリシアスポーツ界で最も素晴らしい歴史を紡ぐ道のさなかにあり、現在も、そして未来もプリメーラのクラブであり続けるはずです。
数年前からプリメーラの多くのクラブが所有する近代的な練習場は、近隣住民に対しても開かれた場所になりつつあります。この練習場もそうなるはずです。
この場所に1つの夢が実現されました。クラブが数年前からその望みを公に表明していた大いなる望みです。
つまり、必要不可欠なものとして一時的なものではない自分達自身の練習場を持つという望みです。
フルコートのピッチ8面。
先進的な技術エリア。
4,000人収容可能なミニスタジアム。
スポーツトラックにプール。
スポーツ大学にその寮。
これは壮大なプロジェクトであり、モウリーニョ会長がいなければ成し遂げられない計画だったことでしょう。
セルタはこのレベルの練習場を持つにふさわしい規模のクラブです。
トップチームの選手達が練習し、カンテラの少年達が次の試合に備える場所がここになるのです。
カンテラの子供達は今イアゴ・アスパスに憧れ、そして明日には彼のようになりたいと願いながら日々の練習に励むのです。
だからこそ我々は、2年前に締結された練習場建設とバライードスの改築に関する計画への合意が、何を意味しているのかということを見失ってはいけないのです。
この合意は未来を築くための合意であり、着工から1年後にこの練習場が竣工を迎えたということは合意の基となった精神が成長を続けていることを意味します。
そして当然のことながら、我々ガリシア州政府は締結された合意を遵守し完遂する方々の側に立っています。
ビーゴ市の紋章の下で、州政府立ち会いのもと締結された、セルタが偉大なクラブとして存続していくための合意を遵守し完遂する方々の側に立っています。
市議会が承認し、セルタも合意したプロジェクトなのであれば、ガリシア州政府はその合意を尊重します。
尊重しますし、両者により締結された合意というものは尊重されなければなりませんし、助け合われるべき事柄です。
セルタはビーゴ都市圏の象徴たる存在です。
同時セルタは全ガリシアを代表する存在でもあります。
皆さん。それがセルタというクラブなのです。
セルタはいちサッカークラブ以上の存在ですし、ビーゴ市もガリシア州内の市町村その他大勢の1都市以上の存在です。
つまり偉大なセルタと偉大なビーゴはまさに並び立つ存在だということです。
セルタはこのガリシアのスポーツにおける大いなる遺産です。
つまりそれはガリシア人全てにとってのスポーツ遺産であり、ガリシア州政府としての我々が取るべき道は、その事実をまずは理解し、尊重し、そして彼らサポートすることです。
スタジアムでチームをサポートしようとするセルタファンはそれぞれ考えが異なり、それぞれの考えや様々な思いを抱えていることは確かです。
しかし間違いなく言えることは彼らは全員一丸となってこのクラブをサポートするためにスタジアムに集まるのです。
したがって、責任ある当事者としての我々にできることは討論を行うのではなく、討論をやめクラブを支援することです。
サッカーと同じです。我々自身に望まれているのは1つのチームとしてまとまること、偉大なことを成し遂げるチームを作り上げること、そして偉大なチームであることです。
1つのチームとして動かなければなりません。ある集団に対抗することではないのです。
チームとして活動する時、メンバーはクラブのルールを尊重するべきですし、クラブはやるべきことを明示するべきです。
そして他の人々は彼らを助けるべきです。
偉大なビーゴ。広く万人に開かれた町ビーゴを象徴するクラブがセルタです。
その偉大さを我々は尊重し守らなければなりません。
ビーゴはスペインサッカーの歴史において常に重要な場所であり続けてきました。
何人かの達人はビーゴに生を受け、19世紀末にはスペインにおけるサッカー界の顔として存在していました。
ほんの数ヶ月前。
ガリシア人のスポーツ選手として、モンチョ・ヒルが初めてオリンピックでメダルを獲得してから100年(※1920年アントワープ五輪)が経ちました。
ビーゴ人であるモンチョ・ヒルがスペイン代表としてメダルを授与されてから100年が経ち、そしてあと1,000日ほどすれば1923年8月23日に誕生したセルタは100周年を迎えることになります。
1923年8月23日に始まったセルタの歩みは、今日我々が感じる誇らしさと喜びに向けた第一歩でした。
時には喜びとは感じられないことがあったとしてもそれはスポーツの一面でもあり、そういった状況に陥った時に持つべきものが、全て大文字で表記される「AFOUTEZA=アフォウテッサ」であるという好例でもあります。
もし誰かが我々の歴史に疑いを持つのだとしたら、その時のために我々は尚のこと現在のプロジェクトを完了させ仕上げることに全力を尽くさねばなりません。
このパンデミックの時代に新練習場アフォウテッサが完成したという事実は、サッカーの試合でいえば前半戦が開始された状態にすぎません。
だからこそ好むと好まざるとにかかわらず、我々はアフォウテッサという言葉を胸に団結する必要があるのです。
私は、我々全員が2023年にセルタの100周年を祝えることを期待し望んでいます。
それはつまり「我々の100周年だ」ということだからです。
そしてその時には、今日この場に集った皆さま全員で、再びこの欧州で最も優れた練習施設の1つであるアフォウテッサに集まりお会いできることを願って止みません。
それこそがセルタのモウリーニョ会長の望みであり、それがこそがクラブ経営陣の望みであり、それこそガリシアが抱える最高の選手達が望んでいることなのです。
だからこそ、王立スペインサッカー連盟の会長も信じてくれたのです。
今日ここで彼にお会いした時に私は申し上げました。
「この施設はスペイン代表が練習するのにとても良い場所になりますよ」
と。
なぜだかわかりますか?
スペインの他の地域に行くよりも、セルタの選手にとっては移動が少なくて済むからです。
本日はお時間を頂戴し、またご清聴頂きありがとうございました。