2000年3月18日(土) スペイン王国 マドリー自治州 首都マドリー
リーガエスパニョーラ1999-2000シーズン 第29節 エスタディオ・ビセンテ・カルデロン |
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アトレティコ・デ・マドリー | 1−1 | レアル・マドリー |
44分:ソラーリ | 得点者 | 33分:モリエンテス |
監督 | |||
ラドミール・アンティッチ | ビセンテ・デル・ボスケ | ||
背番号 | 先発選手 | 背番号 | 先発選手 |
1 | モリーナ | 27 | カシージャス |
15 | アギレラ | 2 | ミチェル・サルガード |
4 | カルロス・ガマーラ | 5 | サンチス |
10 | セルソ・アジャラ | 18 | カランカ |
22 | カプデビーラ | 3 | ロベルト・カルロス |
26 | ガスパール | 12 | イバン・カンポ |
9 | サンティアゴ・ソラーリ | 15 | イバン・エルゲラ |
24 | ベイブル | 6 | レドンド |
12 | ウーゴ・レアル | 14 | グティ |
19 | キコ | 7 | ラウール |
17 | ハッセルバインク | 9 | モリエンテス |
交代 | |||
14 | メナ | 21 | ジェレミ |
18 | ロベルト | 8 | マクマナマン |
焚べられる薪を横目に
今も昔も、変わらないいくつかのことがあります。
リーグ戦も20節を過ぎたあたりから「降格」という言葉を口にするメディアやファンが増え、徐々にその言葉が不気味な力と現実味を帯びて該当者に忍び寄ってくる、という現象です。
1999−2000シーズンの「リーガ・エスパニョーラ」。まだ「ラ・リーガ」というブランド名称が無く、日本でも「リーガ」や「スペインリーグ」と呼ばれていたこの年のシーズンは、多くのファンにとって衝撃的な結末を迎えることになりました。
アトレティコ・マドリー
ベティス
セビージャ
スペイン国内でも有数の有力クラブ、且つ優勝経験のある3クラブが一斉に降格することになったのです。
この規模の3クラブが一気に降格するというのは長いラ・リーガの歴史の中でも類を見ない出来事で、第20節を超えたあたりではまだ「可能性として無くはない」程度に考えられていた「まさかの事態」に、スペイン国内の各メディアやサッカーファンは最終結果を驚きをもって受け止めるばかりでした。
2022年現在でもスペインの2部リーグであるセグンダ・ディビシオン「ラ・リーガ・スマートバンク」は、全42節の長丁場、且つ全国リーグであるというクラブ運営経費も相まって、スペイン語で「Infierno(インフィエルノ)=地獄」と呼ばれています。
1999−2000シーズン当時は2部リーグがAとBに分かれており、セグンダAとセグンダBという、スペインのリーグ構造に馴染みのないファンにはわかりにくい構造になっていました。
セグンダAは22チームによる2回戦総当たりの全国リーグ。対してセグンダBはスペイン全土を複数のブロックに分けたグループリーグ戦+プレーオフによる昇降格が設定されているというレギュレーションで、当時の通説として以下のように語られていました。
セグンダAに落ちて1年で戻れなければ、5年はプリメーラに戻れない。
もしセグンダBに落ちてしまえば、10年はセグンダAまでで足踏みすることになる。
実際に僕が応援するセルタ・デ・ビーゴは、2005−2006シーズンに降格した後、2011−2012シーズンまでの5年間を当時のセグンダAで過ごしていますから、この通説はあながち誇張されたものとは言えないという証明ができるのですが、これはまた別の機会に語りましょう。
ともかく。
一度落ちてしまえばそれだけ上がってくるのが難しいという比喩を込めて、セグンダAから下のカテゴリーは「地獄」と評されているのですが、話はそれだけに留まりません。
1部リーグであれば、当時は日本のスカパーなどにあたる衛星放送TVサービス「Canal Satélite Digital(カナル・サテーリテ・ディヒタル)」がプリメーラ・ディビシオン全試合の放映権を保持しており、契約者による任意の選択により全試合を視聴することが可能でした。
また、地上波では有料放送「Canal+(カナル・プルス)」による各節1試合の独占中継が組まれており、表向きはこれらの放映権料が各クラブに(順位ごとの)均等分配されていたため、「とりあえずプリメーラにいさえすれば」ある程度のまとまった収入は確保できる構造になっていました。
しかし、セグンダA以下のカテゴリーでは放映権がバラバラで、一つの放送フォーマットにリーグ戦の中継が集約されることもなく、各地方のローカル局による単発中継か、土曜日の12時にキックオフされる1試合、という当時のセグンダA独特の試合のみを中継するCanal+の放送以外に放映権料収入は見込めない状況でした。
つまりセグンダAに降格するということは、それだけで大幅な減収減益になることが「始まる前から決まっており、何位で終わっても補填すらされない」ことが確定的に明らかな状況だったのです。
セグンダAに落ちるということは「地獄の釜に落ちていくこと」と同義であり、セグンダAを戦うということは、薪が焚べられ続ける地獄の釜の中で1年間泳ぎ続けることと同義でもあったのです。
そして「降格」という二文字が近づくクラブにとって、状況が改善しない状態で戦うリーグ戦は、常に真横で煮えたぎる窯に焚べられる薪を見ながら戦う感覚に近いものでした。
停滞と難航のカルデロン
1998−1999シーズン。
前年を7位で終え、UEFAカップへの進出を決めていたアトレティコは新監督にイタリア人のアリーゴ・サッキを招聘。システマチックなプレス戦術でミランを欧州王者に導き、イタリア代表監督としても名を馳せた名将を迎えたアトレティコは、しかし思い通りの結果を得ることはできず最終的に13位でシーズンを終えることになりました。
第21節でアウェーとはいえサラマンカに2−1で敗北を喫し、第22節のエスパニョール戦にビセンテ・カルデロンで敗れるとサッキは解任。
第23節から27節までのリーグ戦5試合とコパ・デル・レイ、UEFAカップの各2試合をカルロス・サンチェス・アギアールで凌いだ後、95−96シーズンの二冠達成を成し遂げたセルビア人のラドミール・アンティッチを指揮官に再任させます。
なんとかリーグ戦の残り11試合を切り抜けたアンティッチでしたが、当時のスペインを代表するクラブ会長として良くも悪くも名を馳せていたグレゴリオ・ヘスス・ヒル・イ・ヒル会長はクラブを「救った」と言ってもいいアンティッチをあっさりと再び解任。
98−99シーズンに芸術的とも言える超高速カウンターでバルセローナを始めとする並み居る強豪を屠っていたバレンシアのイタリア人指揮官、クラウディオ・ラニエリを99−00シーズンに向けた新監督として引き抜きました。
99−00シーズン開幕前に、アトレティコはヘスス・ヒル会長が熱望する欧州タイトルの獲得と、再びのリーガ制覇という目標を達成するため、後に明らかとなるリゾート都市マルベージャの公金を流用したマネーロンダリングによる大量補強を敢行。
エスパニョールで頭角を表し始めていた左サイドバックのジョアン・カプデビーラ、パラグアイ代表DFカルロス・ガマーラ、リーズ・ユナイテッドからオランダ代表FWジミー・フロイト・ハッセルバインク、ベンフィカの新生ウーゴ・レアル、マジョルカで輝きを放っていた新ユーゴスラヴィア(当時)代表MFヴェリコ・パウノヴィッチ、さらにエスパニョールのスペイン代表GKトニ・ヒメーネスなど錚々たるメンバーを獲得。
すでに在籍していたメンバーと合わせても2チームを構成できるほどの充実したベンチ構成となったアトレティコは、開幕から全開で走り出し、連続出場していたUEFAカップ、コパ・デル・レイを戦いながら、5年ぶりとなるリーガ制覇に向けて着々と勝点を積み重ねていく・・・はずでした。
開幕戦で昇格してきたばかりのラージョ・バジェカーノとの「マドリー・ダービー」にビセンテ・カルデロンでまさかの0−2という完封負けを喫すると、第2節レアル・ソシエダ戦ではアウェーで4−1と大敗。インターナショナルブレイクを挟んだ第3節でカルデロンにセルタを迎え撃つものの、ヴァレリー・カルピンとフアンフランの2ゴールにより1−2で敗北。
大誤算の開幕3連敗という結果にファンは慌てふためきます。
シーズン初勝ち点はアウェーで行われた第4節サラゴサ戦の引き分け(1−1)。
初勝利は続く第5節ホームのラシン・サンタンデール戦(2−0)となり、この2試合で勝ち点4を獲得したアトレティコは、第5節終了時にようやく17位となります。
第6節のエスパニョール戦(アウェー)に3−1で敗れ、第7節ホームのアラベス戦には1−0で勝利。
ベニート・ビジャマリン(当時)で行われた第8節ベティス戦には敗れたものの第9節のホーム、バジャドリー戦には3−1で勝利し、第10節のサンティアゴ・ベルナベウで行われたマドリー・ダービーには1−3で勝利。
失点が目立ち、全体的に不安定ながらも第10節終了時点で4勝1分5敗の10位。
いわゆる「トップハーフ」に10試合を経てやっと辿り着いたアトレティコでしたが、戦い方は浮ついて不安定なものでした。メンバーこそ豪華でゴールシーンには派手さもあったものの、それが1試合の中でも継続できない。
試合ごとに異なるリズムでプレーしている様子が目立ち、これといった「型」が見えない。
核になる、あるいはなれる、もしくはならなければいけない選手が複数名いるにも関わらず、ピッチの中でリーダシップを発揮している選手がいるとは言い難い。
就任初年度のラニエリのチームは、確かにバレンシアでも結果が出るまでに多少の時間が必要だったとはいえ、それを差し引いても停滞感が強く、チーム作りは難航しているようにしか見えませんでした。
結局この第10節終了時点の10位というのが99−00シーズンにおけるアトレティコの「最高順位」で、これ以降の彼らは10位にすら返り咲くこと無くシーズンを戦っていくことになります。
さらに言えば第19節のマジョルカ戦(1−0)以降、アトレティコのファンはビセンテ・カルデロンでホームチームが勝利する姿を見ることはありませんでした。
不穏な気配
2002年の2月を目処に、欧州共通通貨「ユーロ」への完全移行が決定していたスペインにおいては、当時のスペイン国内通貨単位「ペセタ」との併記義務開始に合わせて1999年から本格的に国内経済の健全化が図られ始めていました。
汚職、贈賄、収賄、粉飾決算、マネーロンダリング、不動産詐欺etc…ありとあらゆる経済関連の不正行為は当局によって監視・調査の対象となり、そして対象となるのは企業のみならずプロスポーツの世界も例外とはなり得なかったのです。
1991年に極右政治政党「Grupo Independiente Liberal(グルーポ・インディペンディエンテ・リベラル:自由主義独立党)=GIL」を結成し自らが代表となったヒルは、その年にアンダルシアの高級リゾート地であるマルベージャ市の市長選に立候補し当選。以来2002年まで市長職に在職しますが、当初からこのマルベージャ市長としての在職を利用し、マルベージャ市の公庫資金をアトレティコの運営費や移籍に関する支払いに流用するマネーロンダリングを行っているという疑惑と調査を受けていました。
賄賂や脅迫によって当局を何とかやり過ごしてきたヒルでしたが、欧州通貨統合の完全移行を前にしたスペイン政府の大粛清・大浄化計画の煽りを受け、1999年12月にアトレティコのクラブ事務所ともども家宅捜索を受ける羽目に陥ります。
結局この家宅捜索をきっかけに、「公然の秘密」とされていたアトレティコの本来の財政状態が白日のもとにさらされることになり、クラブの運営に政府指名の管財人が介入する事態になったのです。
この結果、巨額の財政赤字が明るみになり、一刻も早く所属選手やクラブの資産を売却し、「S.A.D.=スポーツ株式会社」としての財政を健全化しなければ破産させるという通告を受けることになったアトレティコは、シーズン中の成績不振と相まって内外に混乱した状況を露呈することになってしまっていました。
一刻も早く何らかの動きが必要となったアトレティコは管財人の強行により主力FWであったホセ・マリを2000年1月にミランへ売却。第10節のダービーにおいて、サンティアゴ・ベルナベウでゴールをあげた主力選手をシーズン中に失うという状況に陥りました。
今となって改めて当時の状況を考えてみると、すでにシーズン半ばでチームとしてもクラブとしても瓦解していたアトレティコですが、1999〜2000年当時は外から見ていた僕も、そして当事者であるアトレティコのファン達も、事態が最終的な結果に至るまで末期的なものだとは考えていなかったのです。
2000年2月27日の第26節。
バスク州の州都ビトーリアのエスタディオ・メンディソローサで行われたアラベス戦に2−0で敗れた後、クラウディオ・ラニエリは解任され、ビセンテ・カルデロンのベンチにはまたしてもラドミール・アンティッチが鎮座することが発表されました。
二度あることは三度ある。
日本でよく耳にするそんな格言に近いフレーズをアトレティコファン達が口にする一方で、現実には第26節を終えた時にアトレティコは18位に転落。
「降格」という言葉が持つざらついた不快な感触と迫りくる不穏な気配を、ビセンテ・カルデロンは最終節まで抱えながら過ごすことになるのでした。
続く
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