【ベティス−セビージャ】セビージャダービー。緑の壁に守られた日(その1)

La Liga情報

2000年11月19日 スペイン王国 アンダルシア州 州都セビージャ

リーガ・エスパニョーラ セグンダ・ディビシオンA 2000−2001シーズン
第13節
エスタディオ・マヌエル・ルイス・デ・ロペーラ
ベティス1-3セビージャ
47分:カピ得点者56分:テベネ
77分:オリベーラ
81分:オリベーラ

 

監督
フェルナンド・バスケスホアキン・カパロス
背番号先発選手:ベティス先発選手:セビージャ背番号
1プラッツノターリオ13
24トーレス・メストレダビ3
21フィリペスクプリエト4
12ベレンゲルパブロ・アルファロ24
23ベンハミンセサル21
14カピガジャルド28
5パボンタイラ14
15イトカスケーロ22
9アマトディエゴ・リベーラ18
27ホアキンフレディ10
10カーニャスオリベーラ11
交代
13バレーリオオテーロ9
17ロメーロテベネ12
22ガルベスエクトル20

セビージャの2チームとアトレティコの降格@1999−2000シーズン

2019年6月現在「ラ・リーガ・サンタンデール」と呼ばれているサッカースペインリーグは、2000年当時まだリーグ名に冠スポンサーを付けていませんでした。

当時は単にリーグの正式名称はCampeonato Liga Nacional del Fútbol Español(カンペオナート・リーガ・ナシオナル・デル・フッボル・エスパニョール=スペインサッカー全国リーグ選手権)であり、「スペインリーグ」を意味する「リーガ・エスパニョーラ」が通称として使用されている状態だったんです。

1999−2000シーズン終了時、リーガ・エスパニョーラは衝撃的な結末を迎えました。

20チームの2回戦総当りで行われる長いリーグ戦の結果、他国の2部リーグに相当するセグンダ・ディビシオンAへの降格チームがアトレティコ・マドリー、ベティス、そしてセビージャの3チームと確定したのです。

アンダルシア州の州都セビージャをホームとするベティスとセビージャによる残留争いは熾烈を極め、最後の数試合を残して最下位での降格が決まっていたセビージャは、ベティスを道連れにするため八百長かと思われるほどの試合を展開しベティスが降格圏から抜け出すのを阻止。

ラ・ロサレーダで行われたマラガとの一戦では、ベティスと残留を争う形になっていたマラガの勝利をセビージャファンが全力で讃え、セビージャから駆けつけたセビジスタ達が

Beti, Beti, Beti ! SEGUNDA A SEGUNDA !! Beti, Beti, Beti,! SEGUNDA A SEGUNDA !!=ベティ、セグンダAだぞ、セグンダだ!!」

と大合唱。その異様な光景を僕は忘れることができません。

ベティスの正式名称は言うまでもなく「ベティス」ですが、アンダルシア訛りでは語尾の「S」がほとんど消えた状態で発音することが多く、そのためアンダルシア人はベティスのことをしばしば「ベティ」と発音します。

日本のファンでも知っている方はいるかもしれませんが、ベティスファンの間で叫ばれるフレーズに

ビバ、ベティス!たとえ敗れようとも!

というものがあります。スペイン語で正式に書くと

「Viva Betis ! Aunque pierda !=ビバ、ベティス!アウンケ、ピエルダ!」

なのですが、これをアンダルシア訛りでは

Viva Beti ! Manque pierda ! =ビバ、ベティ!マンケ、ピエルダ!

と書き、叫びます。「Manque」という単語の語源などについてはスペインでも諸説あるのですが、有力とされる説の1つは「Aunque=たとえ〜でも」という単語に「Más=さらに」という意味が付け加えられ「たとえ〜だろうとそれ以上に」という意味がアンダルシアのみで使われるようになり、それが15世紀の大航海時代にラテンアメリカの一部にも伝播したと言われているものです。

結局18位でシーズンを終え、ギリギリで残留を果たせなかったベティスファン=ベティコ達をスペインの国営放送局TVEが取材した際、高齢の夫婦が涙を流しながら「Viva Beti ! Manque pierda!!! 」と叫んでいたことを僕は今でも覚えています。

ちょうど僕はその年スペインに住んでいて、ベティス、セビージャ、アトレティコの降格の瞬間をリアルタイムで見ていました。そしてその時、僕の頭にはある考えがよぎったのです。

セグンダのセビージャダービーを絶対に現地観戦しよう」と。

2000−2001シーズン セグンダ・ディビシオンA 第13節

当時のスペインでは新シーズンの日程が8月にならないと決まらず、僕はやきもきしながらセグンダAの日程表を待っていました。

そうこうしている間に世間では7月にポルトガル代表MFルイス・フィーゴがバルサからレアル・マドリーに移籍するという大事件が発生し、それまでは降格した3チームが1シーズンでプリメーラに復帰できるのかどうかがニュースの中心だったものがそんな話は一切話題にも出なくなり、MARCAやASといった有力紙やテレビはプリメーラが開幕してからもそのニュースを延々報じることになります。

ようやく8月に入りセグンダAの日程が発表されると、セビージャダービーの1回戦目は11月19日。ベティスホームで行われることが発表されました。

会場はベティスのホームスタジアム、エスタディオ・マヌエル・ルイス・デ・ロペーラ

2019年現在ではスタジアム名が昔から馴染み深い「ベニート・ビジャマリン」に戻っていますが、2000年当時のベティス会長マヌエル・ルイス・デ・ロペーラは2000年1月1日をもってホームスタジアム名を自身の名前に変更。これはデ・ロペーラ自身が当時ベティスの最大株主だったためクラブの決定権を掌握していたからこそ可能だった荒業でした。

そして翌週には僕達セルタファンにとっては大一番が待ち受けていることも日程の発表により明らかになります。

ガリシアダービーです。

2000年11月26日に予定されたガリシアダービーは、アウェーで行われることがわかりました。

セビージャダービーが行われるのは11月19日の日曜日。11月26日も日曜日なので1週間余裕がありましたが、セビージャダービー同日に行われるバライードスでのホーム戦を蹴ってセビージャに行くことを僕は少しためらいました。

しかしセグンダAで行われるセビージャダービーを見る機会など、一生のうちでそう何度もあるとは思えません

結果的に僕は後にも先にもアンダルシアを訪れたのがこの時の1回だけなのですが、それまでアンダルシアに行ったことがありませんでした。

セビージャ行きを決意。到着後への不安。

観光名所であるヒラルダの塔やビゼーのオペラ「カルメン」に登場する旧王立タバコ工場(現セビージャ大学キャンパス)大聖堂カテドラルも見てみたかったし、闘牛3大聖地の1つであるラ・マエストランサや市内を流れる大河グァダルキビール河も見てみたいとずっと思っていた僕は、結局セビージャ行きを決めたのです。

当時は今のようにネットでのチケット購入システムはありませんでしたし、そもそもスマホが存在しない世界でした。

リーガの試合を観戦するためには基本的に試合が行われる現地まで行き、試合が行われるホームスタジアムか各クラブのオフィシャルショップに割当があればそこで購入するというのが大前提だったんです。

代行業者もありませんでしたし、当時のインターネットはダイヤルアップ回線でした。転売業者もいるにはいましたが人気カードになると定価の3割〜5割増しになることも多く、そういった業者を使うことは現実的ではありません。

そのため、セビージャ在住ではない僕がこの「セビージャダービーを見に行く」という行為は、それだけでギャンブルのようなものでした。

  • もしかしたらソシオや年間チケット保持者でスタジアムが埋まり一般販売が無いかもしれない。
  • 一般販売があったとしても販売開始と同時に売り切れてチケットが買えないかもしれない。
  • 交通機関やスタジアムまでの道のりを調べるのに手間取り、出遅れてしまうかもしれない。

一度現地で経験してしまえば何でもないことが、初めて行く町では情報量の不足でとんでもなくハードルの高いものだったんです。

それでも僕をセビージャに向かわせたのは「この試合は一生の語り草になる」という強く確信以外に何もありませんでした。そしてそれはその後に起こったことも含めて、恐らく正しかったのでしょう。

今こうして当時の話を形にして届けることができているわけですから。

この話はめちゃくちゃ長い話なので、2回か3回に分けてお届けします。

次回はセビージャに行くまでに僕が何をしたのか。そしてセビージャに到着してからの出来事を書き記したいと思います。

つづく

【ベティス−セビージャ】セビージャダービー。緑の壁に守られた日(その2)
「セビージャダービーでベティコに護衛された話」第2回を執筆しました。セビージャに到着した僕はベティスのスタジアムに辿り着き無事チケットを購入します。そこから怒涛の展開が待ち受けるとも知らずに。
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