2000年3月18日(土) スペイン王国 マドリー自治州 首都マドリー
リーガエスパニョーラ1999-2000シーズン 第29節 エスタディオ・ビセンテ・カルデロン |
||
アトレティコ・デ・マドリー | 1−1 | レアル・マドリー |
44分:ソラーリ | 得点者 | 33分:モリエンテス |
監督 | |||
ラドミール・アンティッチ | ビセンテ・デル・ボスケ | ||
背番号 | 先発選手 | 背番号 | 先発選手 |
1 | モリーナ | 27 | カシージャス |
15 | アギレラ | 2 | ミチェル・サルガード |
4 | カルロス・ガマーラ | 5 | サンチス |
10 | セルソ・アジャラ | 18 | カランカ |
22 | カプデビーラ | 3 | ロベルト・カルロス |
26 | ガスパール | 12 | イバン・カンポ |
9 | サンティアゴ・ソラーリ | 15 | イバン・エルゲラ |
24 | ベイブル | 6 | レドンド |
12 | ウーゴ・レアル | 14 | グティ |
19 | キコ | 7 | ラウール |
17 | ハッセルバインク | 9 | モリエンテス |
交代 | |||
14 | メナ | 21 | ジェレミ |
18 | ロベルト | 8 | マクマナマン |
第1話はこちら
第2話はこちら
そのままの光景、ありのままの生活感
Lavapiés=ラバピエス
プエルタ・デル・ソルやグラン・ビア、プラサ・マジョール(マジョール広場)から地図上で見てやや南に下った一角に広がる地区の名前です。
マドリーに多少詳しい日本人なら、おそらく多くの人が「ああ、あそこね」と分かる場所。
そしてマドリレーニョ(マドリーっ子)達にとっては「バルが立ち並ぶ町」として知られた場所。
2000年当時は当時のヨーロッパ、そしてアフリカに渦巻く様々な社会情勢の影響を受け、マドリーのセントロ以南を構成するオペラ、チュエカ、そしてここラバピエスを「魔の三角地帯」と呼ぶ人もいるほどトラブルが報告されている場所でもありました。
路上強盗やらチンピラ、ゴロツキ、ギャングもどきの抗争やらあれやこれや。
マドリーに詳しい人や大使館関係者からも「あのあたりには極力近づかないほうが良い」というコメントも出るなど、日本人にとって安全な場所とは言い難い場所でもあったのです。
ただし、昼間に人目のある時間であればマドリーでもどこでも大抵の場所は歩いているだけで危険な目にあうようなことはそもそもありませんでしたし、夕方から夜間にかけても長時間、人通りの少ない場所で1人になって無防備な行動を取ったりしなければ基本的に危険なことは無い・・・というのが一般的な認識だったのも事実です。
なにしろ、チュエカもラバピエスも「イイ感じのバル」が軒を連ねている地区でしたし、何より首都マドリーにしてはそれらのバルが観光地価格ではない「市井の値段」で楽しめる場所でもありました。
そしてラバピエスはマドリーの中心部より南に位置していて、ビセンテ・カルデロンがある地下鉄3番線のピラミデス駅まであとわずかという距離。当然のことながら立地的にレアル・マドリーファンよりもアトレティコファンを見かけるほうが多かったので、カルデロンでのマドリーダービーを見に行く前日に一杯やるにはラバピエスが最適だろうと僕は考えました。
「Lavapiés」という単語を聞いて、スペイン語を解す方なら得も言われぬ興味をそそられることでしょう。僕もそうでした。
「Lavapiés」とは「Lavar=洗う」「Pies=足」という二つの単語が組み合わせて出来上がっている単語であり、つまり「足を洗う町」という意味になります。
「足を洗う」と名付けられた地区だと聞いて僕のような人間が想像するのは「昔は投獄されて釈放されたり、何らかの理由で悪事を働く活動をやめざるを得なくなったり、更生しようと思い直した人間が集まる町だったのか」という下衆な発想なのですが、実際に調べてみると様々な説があることがわかりました。
文字通り、悪事を働いていた人間達が、それらの悪行から手を引いてやり直すために集まり形成された地区だという説。
かつて近隣の地区を含めて教会がラバピエスにしかなく、そのため「洗足式」を行えるのがラバピエスにしかなかったため「洗足式を行う場所」=「足を洗う場所」としてラバピエスという名前になった、という説。
そもそも洗足式とはイエス・キリスト存命の時代においては奴隷が主人の足を洗うことを意味していたという事実と、当時の住人達が社会階層が低く「主人の足を洗うような階層の者達が住む場所」という意味でラバピエスと呼ばれるようになった、という説。
いまだにその真偽や真実は知るところではないのですが、ともあれこのラバピエスという場所が様々な意味で魅力的な地区であることに今も昔も変わりはなかったようです。
地下鉄の駅を降り、階段を上がると見えてくる放射状に伸びる小さな路地の数々。
その路地に肩を寄せあってひしめき合うような佇まいを見せる数々のバル。
そしてそのバルから溢れ出るように、つまみや酒を手に各々の過ごし方を楽しむ人、人、そして人。
そもそも今から冷静に考えてみれば、なぜラバピエスが当時危ない危ないと言われていたのかが、実は僕にもよくわかっていません。確かに周辺でゴロツキやチンピラ、ギャングもどきによる抗争が散発していたのは事実だったのですが、実はラバピエスの地下鉄駅自体は、ピカソの描いたあまりにも有名な絵画「ゲルニカ」が展示されているソフィア王妃芸術センター、通称「レイナ・ソフィア」の目と鼻の先です。
東にレイナ・ソフィアや、アンダルシア方面へ向かう列車の発着駅として知られるアトーチャ駅を眺め、北にはラバピエス通りというバルや多国籍商店を抱えるこの地区の雰囲気は、プエルタ・デル・ソルやプラサ・マジョール、グラン・ビアやサンティアゴ・ベルナベウ周辺とは全く異なる「土の匂い」がするものでした。
気取っているわけではないけれどどこか和やかな気高さがあり、それでいて昔から暮らす地元民が集まる町特有の、あの匂いです。
マドリーの南側に位置する地区であるがゆえに、僕が訪れた限りで目にした中では、レアル・マドリーのファンよりも圧倒的にアトレティコとラージョのファンが多く見つけられる地区でもありました。
道にせり出す樽をテーブルに見立ててビールやワインにタパスをつまむ酔っぱらい男達が口にする話は、仕事の愚痴と、笑顔で強調する妻への文句。そして最後にはアトレティコかラージョの話です。
着飾っているわけでもないのに少し気取った感じにワイングラスを構えて男達を遠目に見る女達が口にするのは、彼氏の惚気と仕事への諦め、そして笑顔で強調する夫への愚痴でした。
僕がスペインに行って驚いたことの一つに、当時のスペインにはサッカーを憎悪する女性がたくさんいた、ということでした。もちろん全員ではありませんし、比率は違えども2022年現在でも似たような状況はまだあるのだと思いますが、とにかく「選手の名前にもチームの順位にもなぜか詳しいのにスタジアムには絶対に近寄らず、リーグ戦の情報はスラスラと諳んじられるのに、サッカーの話を心底忌々しそうに話す」女性が僕の周りには多かったのです。
そんな人々が、立ち並ぶバルやカフェテリーアの中でそれぞれの立ち振舞で思い思いに過ごす。
それがこのラバピエスという地区の日常でした。
明日を夢見る男達
時間は夜11時半を過ぎ、店にもそこそこ人が入り始めていました。
スペインでの滞在経験や在住経験がある方であれば、「そろそろかな」と思うような時間でしょう。
スペインでは夜10時や11時というのは、夜としては「まだ早い」と考えられることが多い時間帯です。極端な話、これぐらいの時間から「そろそろ出かけるか・・・」と待ち合わせ場所に向かったり、場合によっては夜11時半に待ち合わせ時間が設定されたりすることもあるような時間なのです。
そのため、町や地区によっては夜11時や11時半を過ぎてもバルに入ったところでたいして人が入っていなかったりもします。
そんなスペインにおいて、ラバピエスは比較的出足の早い地区だというのが僕の認識でした。
飲兵衛が多いのか、それともそもそもそういう行動様式の人達が多いのか。実際のところはよくわからないままだったのですが、とにかくこの日のラバピエス地区のバルはどこもそこそこ人が入り始めていたのです。
明日は近所のクラブであるアトレティコが「勝負の試合」を控えていて、翌週にはラージョにとっても同様の試合が控えている。
そんな状況でいわば「地元の人達」はどんな夜を過ごすのだろうということに僕は非常に興味がありました。
例えば、グラン・ビア周辺やプエルタ・デル・ソル周辺、プラサ・マジョール周辺などのいわゆる「マドリーのセントロ」のような場所においては、あまりユニフォーム姿の人物を見かけることがありません。基本的にそれらの地区は観光客も多く、マドリーの中でも「でかけていく場所」にあたるため、マドリー在住のスペイン人だったとしても「その辺」という意識ではないからだろうというのが僕の理解でした。
しかしラバピエスではそこかしこでユニフォームをまるで普段着のTシャツのように着ている人達を見ることができました。それも、アトレティコやラージョのユニフォームを着ている人達を。
ビセンテ・カルデロンやバジェーカスが近いのに、レアル・マドリーのファンが多いバルに行っても面白いことなどないだろうと思った僕は、あちこちのバルを覗き歩いてから、店の奥にアトレティコとラージョのマフラーが飾ってあり、両クラブのポスターが貼ってある店に数名のアトレティ達やラージョファンがいるのを確認してそこに入ってみることにしました。
よく言われることですが、スペインのバルというのは「床が汚いバルが良いバル」だと言われています。
衛生観念が変わりつつある2022年現在ではだいぶ様変わりした部分もあるようですが、1999年当時のスペインにはまだまだ「美味いバルは床が汚くあるべし」という、ある意味伝統的なスタイルがまだ息づいていました。
では僕が入ったそのバルがどうだったのかと言えば、床は特段汚いわけでもなく、さほどゴミが散らばっているようにも見えません。
ちなみにここで言う「ゴミ」とは、「オリーブの食べカスや種」であったり、「タパスやピンチョスを食べた後の楊枝」であったり、「口元を拭いたりした後の丸めた紙ナプキン」であったりするのですが、その店でそういったものが散らばっている様子は特に見受けられなかったのです。
どういうことかと言えば、つまりそこは「ありきたりの普通の店」であり、場合によっては「大して美味くもない店」である可能性すら否定できませんでした。
ただしこの日の僕にとっては入るバルが美味いかどうかはさほど重要なことではありません。
この日の僕が目的にしていたのは「重要な試合を明日に控えた危機的状況のアトレティ達がどう過ごすのか」を見ることであり、「あわよくば彼らがどんな心情なのか」を知る機会を得ることでした。
この5年後。僕はセルタの降格という自分自身の経験を通じて「どんな心情なのか」を身を以て思い知ることになるのですが、それはまた別の話です。
「明日だ。そう。明日なんだよ・・・」
お通夜にでも出ているかのような暗い表情をした男が仲間に向けてそう呟いています。
呟いていると言ってもすでに酒が入ったスペイン人のこと。日本人がイメージする小声でブツブツ、というやつではなく、僕達からすればほぼ「叫んでいる」に近いか「普通に話している」に近い声量なのですが、まあそれは置いておきましょう。
とにかく、俳優のダニー・デビートの身長が少し伸びた感じの小太り男は、アギレラのユニフォームを着込みながら、体躯に似合わない小ぶりなワイングラスを片手に陰気な雰囲気を醸し出していました。
「明日なんだ」というその響きが持つ本当の意味を僕が知るのはこの少し後のことなのですが、当然この時点では誰もそれを知るよしもありません。こうして振り返ってみるとこうした小さな予言めいたものが当時のアトレティコの周辺には数限りなく積み重ねられていたことがよくわかるのですが、進行中の状況下にいる当人達には、当たり前のことですが知るすべはありませんでした。
「とにかく、明日勝てば波に乗れる。アイツラも気合い入れ直して立ち直れるだろう」
”アイツラ”というのは恐らく選手達のことで、つまり小太りの彼はホームのダービーでマドリーにさえ勝てれば、波に乗って降格圏から一気に脱出できると考えているようでした。
振り返ってみれば、そんな都合の良いことが起こる可能性はとても低かったのがこのシーズンのアトレティコでした。30試合近く戦ってきて監督も交代し、前年まで実績のある監督がダメで、以前に優勝経験のある監督でもダメ。そんな状態で1試合勝ったところで今までがなかったことになり都合の良い結果が手に入る可能性など、あるはずがないのです。
その後の20年以上に渡るラ・リーガの観戦において、同じような状況からキーポイントになる1試合を皮切りに状況を好転させたチームを、僕はほとんど見たことがありません。
もちろん、当事者達はそれを夢見ますし期待もします。
そうなってほしいのだから当たり前なのですが、外野から第三者として俯瞰して見てみると、そのような状況にいるチームというのは立て直すのが本当に難しいものです。
事実、このシーズンのアトレティコもやることなすこと何一つうまくいかず、挙句の果てにシーズン締めくくりのコパ・デル・レイ決勝では100周年のエスパニョール相手にとんでもない失点で敗れるという悲惨な末路を辿ることにもなります。
この夜にラバピエスにいた中でそんな末路を知っている人間は誰一人いなかったわけですが、少なくともあの夜あそこにいた男達は、まだアトレティコの「明日」を信じている連中でした。
「アトレティコがプリメーラにいないとつまらないよ」
と、僕は小太り男に話しかけてみました。
「あ?なんだお前、スペイン語話せんのか、中国人?」
全員が全員ではありませんが、こういう品のない言葉遣いをする連中がそこかしこにいる所、というのが僕にとってのラバピエスでした。
「ああ、それなりには話せるよ。中国人じゃなくて日本人だけどな、俺は」
と小太りダニーに返すと、ダニーと仲間たちはゲラゲラ笑いながら振り返ってきました。
「お前らどいつもこいつも同じようなツラしてやがるからさ、わからんのだwwwまあそれはともかく、なんだお前アトレティ好きなのか?」
ここまでステレオタイプで金太郎飴な反応をしてくれると逆に愛嬌すら感じるのですが、当然こちらのそんな心の声が彼らに届くはずもありません。
「だろうねw俺もアンタがフランス人なのかドイツ人なのかわからないよ。で、アンタはスペイン人?」
と、僕は最後の質問には敢えて応えずにヘラヘラ笑いながらやり返しました。
仲間3人ぐらいと同時に、小太りダニーは腹を抱えて笑い出します。
「お前wwwよくそんなこと言えるほど勉強したなwww一杯おごってやるよwww」
念のために書いておくと、こういう会話においてお互いに完全な悪意があることは基本的にはありません。スペイン人は酔っ払うと無遠慮になるし、そもそも彼らは無遠慮です。
スペイン語のフレーズの中には日本語にすれば差別だと目くじらを立てられるような表現が山程ありますし、それでいてそんなことを誰も気にするような時代でもありませんでした。
僕も彼らがそういう文化の中で暮らしていることを理解しつつありましたし、実際に自分で暮らしてみると、それに慣れてやり過ごしたりやり返すということも一種のコミュニケーションとして使えるということを理解し始めてもいたのです。
だから僕は彼らが奢ってくれるカーニャ(生ビール)をありがたく受け取り、まんまと話の種に加えてタダ酒を手に入れたことにほくそ笑みました。
「アトレティコの明日に乾杯!」
とグラスを合わせて乾杯し、少し口をつけたところで「ちなみに」と僕は口を開きました。
「俺は別にアトレティってわけじゃなくて、セルタのファンだよ。でもスペインの中でもう一チーム気になるところがどこかと言えば、アトレティコに親近感を持ってる」
自分自身の立場を明確にしておこうと宣言すると、また小太りダニーと仲間たちは爆笑し始めました。
「セルタwwww日本人が、セルタ???いいね、お前面白いよwww」
それまで何度も”つかみ”として使い、場を作る材料として機能してきた鉄板のネタがここでも通用したことに内心で安堵しながら僕はグラスに口をつけ、バルの奥にかかっている古ぼけた時計に目をやると、時間は12時をとっくに過ぎています。
99−00シーズンのアトレティコにとって「最後のチャンス」だった一日が、始まっていたのでした。
続く
第1話はこちら
第2話はこちら