香川真司がセグンダAのサラゴサへ移籍
スペイン現地時間8月9日、セグンダ・ディビシオンAに所属するレアル・サラゴサは公式ツイッター、公式ウェブサイトの双方で日本代表MF香川真司を2年契約で獲得したことを正式に発表しました。
🇪🇸 Bienvenido al #RealZaragoza
🇬🇧 Welcome
🇯🇵 Yõkoso#MePuedeElCorazón #LoLlevasDentro 💙🦁 pic.twitter.com/y3Nhf8ua1v— Real Zaragoza (@RealZaragoza) August 9, 2019
香川は元所属クラブであるドイツのボルシア・ドルトムントで出場機会を失った後、2018−2019シーズン後半をトルコのベシクタシュへレンタル移籍。
後半戦だけで4ゴールを記録するなど、まだ選手としての実力が錆びついていないことをヨーロッパに示しており、もともとスペインでのプレーを以前から希望していたこともありスペイン移籍の道を模索していたようです。
7月27日頃に突然日本のメディアを賑わせた香川の移籍に関するニュースが、セルタ・デ・ビーゴへの移籍という話題でした。
このブログでも7月28日の記事「【セルタ】香川真司のセルタ移籍という噂に関する個人的な考察」で香川のセルタ移籍の可能性と信憑性、そしてこの噂に関する個人的な見解を述べました。
この記事の中で僕はセルタのフラン・エスクリバ監督がこのニュースに関して全く把握しておらず、クラブとも話し合っていないという趣旨の発言をしていることを理由に、この噂が噂のままで終わるのではないかと結論付けました。
そして同時に、語学の問題やセルタの経営状態の件を考えると香川の年齢で「セルタに移籍すること」はリスクが多すぎるとも書きました。
香川のサッカー選手としての実力には疑いの余地がなく、ヨーロッパで確かな実績を残してきたことも評価されるべきものですが、これから経営的にさらなる改善が必要とされクラブの再建に取り掛かっており、地元出身選手の強化を方針として掲げるセルタを選択することに僕は疑問を感じていたのです。
しかし移籍先がサラゴサであり、そして何より監督がビクトル・フェルナンデスであるとなれば話は全く変わってきます。
ビクトル・フェルナンデス・ブラウリオという監督
現在レアル・サラゴサの監督を務めるビクトル・フェルナンデス・ブラウリオは1960年生まれの58歳。
サラゴサ出身でまさに生まれながらのサラゴシスタというべき人物です。プロのサッカー選手としては全く実績を残せずに負傷も影響し、若くして引退した後すぐに指導者の道へ進んでいます。
いわゆる「攻撃サッカーの信奉者」としてスペイン国内でも知られていて、1991年〜1996年までサラゴサの監督を務め、1993−1994シーズンにはコパ・デル・レイで優勝。翌1994−1995シーズンのヨーロッパ・カップウィナーズ・カップで優勝するという快挙を成し遂げています。
サイドを効果的に使い前線の流動性を確保しながら、アルゼンチン人FWフアン・エドゥアルド・エスナイデルを中心とした攻撃陣に積極性を与えたサッカーはスペイン中で高く評価され、その後ビクトル・フェルナンデスは1998−1999シーズンからセルタ・デ・ビーゴの監督に就任。
アレクサンデル・モストヴォイ、ヴァレリー・カルピン、クロード・マケレレ、グスタボ・ロペスといったタレントを効果的に使ったサッカーは、UEFAカップでアストン・ヴィラやリヴァプールをアウェーで破るなど旋風を巻き起こしました。
当時セルタが見せたサッカーはスペインのみならずヨーロッパ中で高く評価され、故ヨハン・クライフが「ここ数年で最も魅力的で、現在最も評価されるべきサッカーだ」とコメントするほど国内外から一目置かれる存在にまでセルタの名前を轟かせたのです。
セルタの監督を退いた後は2002年〜2004年までベティス。2004年〜2005年にポルト、2006年〜2008年までは再びサラゴサの監督に就任。
2004年に横浜で開催された最後のトヨタカップではコロンビアのオンセ・カルダスをPK戦の末に破り優勝も果たしていますが、サラゴサでの2度目の監督時代には2008年に降格の憂き目にあっています。
一貫してトップ下タイプの選手を上手く使う戦術を駆使することに長けており、代表的なチームがアレクサンデル・モストヴォイを擁したセルタ・デ・ビーゴと、そしてパブロ・アイマールとアンドレス・ダレッサンドロを擁した第二期サラゴサ時代でしょう。
保有する選手のタイプが非常に似通っていたセルタと第二期サラゴサ時代にはどちらもUEFAカップへの出場権を獲得し結果を残しており、展開する戦術も類似性のあるものでした。
中盤のセントラルMFに展開力に優れたタイプとボール奪取能力と守備力に優れた2人を置き、身体能力に優れたセンターフォワードを中心にトップ下と両サイドを広く流動的に使いながら徐々にディフェンスラインも押し上げて全体をコンパクトに保ち、自陣からより遠い位置でプレーするというゲームコンセプトは、ハマったときにはとめどなく押し寄せる怒涛の攻撃力を発揮。
一方でその網をかいくぐられたときには致命的なピンチを招くことに直結するのですが、「2点取られても3点取り返す」ような試合を展開していたことで、ビクトル・フェルナンデスの指揮したクラブのファンはそのエンターテイメント性に酔いしれました。
ビクトル・フェルナンデスという人物
評価の高いビクトル・フェルナンデスではありますが、当然のことながら彼が永遠にサラゴサの監督を務めていくわけではありません。
もしかしたら今シーズンは極度の成績不振となり、シーズン途中で解任される可能性も当然あるでしょう。
しかし、ビクトル・フェルナンデスの指揮するチームで香川がプレーするということは、香川にとって少なくないメリットがあると僕は考えています。
ビクトル・フェルナンデスがトップ下タイプの選手を好む監督であるということもそうなのですが、何よりビクトル・フェルナンデスの人柄と性格が香川にとっては吉と出る可能性が高いだろうという予感がするからです。
例えば香川がボルシア・ドルトムントに移籍し、初年度からあれだけの実績を残せたのはユルゲン・クロップの教師然とした指導とコミュニケーションが深く影響していたことはよく知られています。
そしてビクトル・フェルナンデスも似たようなタイプの人物であることを僕はよく知っています。
ビクトル・フェルナンデスはサラゴサ大学で哲学を専攻しており、読書家であることでも知られている人物です。選手に対する敬意を欠かさず、アレクサンデル・モストヴォイがどれだけ愚かな行いをしようとも記者会見では決してモストヴォイを公に批判するようなことはしませんでした。
記者達は何とかしてビクトル・フェルナンデスから直接的な言葉を引き出そうとしていましたが、ビクトル・フェルナンデスは哲学のフレーズなどを多用しその都度記者達の質問を煙に巻く始末。
彼のコメントを日本語に翻訳して理解するのは僕にとっても至難の業だったことをよく覚えています。
セルタの練習場であるア・マドローアに通い詰めていた時、ビクトル・フェルナンデスはよく選手と話し込んでいました。練習メニューの消化はアシスタントコーチに任せ、前節の試合中の出来事や次の試合に向けてやってほしいことを鍵になる選手とひたすら話し合いプランを練り込んでいく様子が非常に印象的で、練習中も落ち着いた冷静な議論と会話を心がけている監督です。
もし彼があの頃から人間的に変わっておらず、そして悪印象を持つような体験をあの後していないのだとしたら、ビクトル・フェルナンデスはようやく彼にとっての望みの一つを叶えることになります。
それは「日本人と仕事をしてみたい」という2001年2月にこぼした彼の希望です。
今から18年前の2001年2月、バライードス近くにはセルタのスタッフや選手がよくたまり場にしているバルがありました。地元では有名な店なので長年セルタの関係者が入り浸っていたため、店に入って選手やスタッフがいることが極普通のことだったためいちいち騒ぐことでもありませんでした。
セルタはリーグ戦前日の午前中にバライードスで非公開練習を行うことにしています。
ファンは皆そのことを知っているため、練習が終わる頃には選手からサインをもらったり写真を一緒に撮ってもらうために集まることが多く、僕もその日は暇だったので何となくバライードスへ遊びに行き様子を眺めていました。
たまたま機嫌の良さそうだったモストヴォイに、もう何度目かもわからない写真撮影を頼んで「またお前かよw」と爆笑されながら写真を撮った後に僕はたまり場のバルに行ったのですが、カウンターに座った僕の隣には顔を貼り付けるようにしながら頭を抱えて地元紙FARO DE VIGOを読みふけっている男性がいることに気づいたのです。
そしてそれがビクトル・フェルナンデスでした。
ア・マドローア練習場やバライードスでの試合後などで言葉をかわしたことはありましたが、そのバルで彼を見るのは初めてだったのでバルのオヤジに「珍しい人がいるね」と声をかけると、ビクトル・フェルナンデスは僕の言葉に気づいたのか顔を上げて僕を見るとニヤリと笑い、
「君が気づいていないだけで私は君がいつもいるのを知っていたよ」
と声をかけてきました。
この時の話は長くなるのでまた今度にしますが、とにかくその時に聞いたのは、彼がテネリフェの監督を解任された1997年、奥さんと気分転換にカナダを旅行した時の話です。
どこだかでクルーズ船に乗っていた時にビクトル夫妻はキャノンのカメラの使い方がわからず困っていたところ、似たモデルを持っていた旅行者夫婦が丁寧に使い方を教えてくれ、夫妻の写真撮影もしてくれたということでした。
当時あまり英語が得意ではなかったビクトル・フェルナンデスはあまり会話ができなかったらしいのですが、それでもお互い片言の英語で会話をしながら最終的に夕食を共にし、おかげで思い出の写真を残せた良い旅行になったという話をしてくれました。
そして、その親切な夫婦というのが日本人だったというのです。
「でも、あなたは英語話せなかったんでしょう?本当に日本人?韓国人とか中国人だった可能性は?」
と僕はビクトル・フェルナンデスに尋ねたのですが、彼は明確に
「いや、ジャパニーズだ、と言っていた。妻が英語を少し話せるので間違いない」
と答え、更に続けて
「英語も大して話せないのにどうして助けてくれたのか不思議だったが、彼らは”日本のものを使ってくれているから”とニコニコしていたよ。君達は親切な国民性だと聞いていたが、本当だと実感した」
と妙に日本人を褒めてくれたので、僕は調子に乗って
「スペイン人が日本人に親切かどうかはわかりませんけど、少なくとも僕や僕の周りの日本人はあなたのサッカーが好きですよ。いつかあなたが日本のクラブや、あるいは代表チームで指揮を取ってくれたら僕としては最高なんですけどねw」
と軽口を叩きました。
するとビクトル・フェルナンデスは身を乗り出すようにして興奮し始め、
「それだよ!いつか日本に行ってみたいと思ってるんだ。言葉の問題が大きいから今は難しいがね。代表云々はわからないが、ローマに中田がいるだろう。彼は素晴らしい選手だ。私もいつか日本人選手と仕事をしてみたいと最近思っていたところなんだよ!」
とまくし立てたのです。
「その時は通訳として雇ってくださいよw」
と、僕が調子のいい相槌をうった日から18年。
当時話していたことをビクトル・フェルナンデスが覚えていたりすることはないでしょうが、少なくとも彼が当時抱いていた「日本人選手と仕事をする」というぼんやりとした望みは、とうとう叶ったことになります。
トップ下を好み、かつて日本人と仕事をしてみたいと思っていた監督の指揮するチームで香川がプレーできるのであれば、場合によってサラゴサは再びワクワクするようなサッカーを見せてくれるチームになっていく可能性があると僕は思っています。
僕は今でも語学の面が解決できなければ日本人選手がスペインで満足に活躍することは難しいと思っていますが、観察眼に優れコミュニケーションを重視するタイプの監督であれば話は別だとも思っています。
代表的な例がエイバルの乾貴士とホセ・ルイス・メンディリバル監督の関係性ですが、香川とビクトル・フェルナンデスも同じような関係性になれるのではないかと淡い期待を抱くのです。
ビクトル・フェルナンデスは自分が実現したいサッカーを体現できる選手の獲得を望むタイプで、サラゴサ第二期監督時代にもかつてセルタで共に戦ったペテル・リュクサン、フアンフラン、セルヒオ・フェルナンデスなどを相次いで獲得させ、モストヴォイのポジションにパブロ・アイマールを当てはまるなど類似するチームを作り上げた過去があります。
トップ下を基本としながらもサイドに流れて得点も取れるタイプの香川は、嗜好が変わっていなければ間違いなくビクトル・フェルナンデス好みの選手のはずで、その観点からも僕はこの移籍が成功するのではないかと少しワクワクしています。
サラゴサの公式サイトは日本語で香川の移籍をアナウンスし、香川も恐らくクラブが用意したのであろうスペインのフレーズを公式ツイッターで動画として配信しています。
何よりも8月6日の段階でビクトル・フェルナンデス自身が
私は落ち着いてはいるものの、とても楽しみにしていることがある。4日前からのことなんだが、ある重要なことが起き始めている。
近いうちにそれを世間に発表できるだろうと確信している。
と記者会見で述べており、本人が香川の移籍をクラブと話し合って進めていたことが想像できます。
恐らくサラゴサも香川の獲得の可能性を探ってはいたのでしょう。
そして何よりも、監督がこの移籍に同意しているというのは何よりも大きな要素だと僕は考えます。
かつて長谷川アーリアジャスールがサラゴサに移籍した際にはあまり結果を残せなかったため、もしかすると最初はファンから懐疑的な目で見られることもあるかもしれません。
しかしサラゴサのホームスタジアム、ラ・ロマレーダの観客は一度結果を出してしまえば英雄的な扱いをするファンであることも知られています。
早い段階でファンを味方につけ、再びプリメーラに昇格する原動力となることで、新たなアラゴンの英雄として香川が讃えられる日が来るとしたら、それはとても素晴らしい光景になるのではないでしょうか。