23年前の移籍劇
1996年のシーズンオフ。
イオマール・ド・ナシメント・”マジーニョ”はバレンシアからセルタにやってきました。
1994年のアメリカ・ワールドカップでレギュラーとして決勝トーナメントをプレーし、ブラジルに4度目のワールドカップをもたらした後にバレンシアの監督に就任したカルロス・アルベルト・パレイラ。
そのパレイラの希望でバレンシアが獲得したマジーニョはわずか2シーズンという短い期間をバレンシアで過ごした後、セルタ・デ・ビーゴに移籍したのです。
ブラジル代表でマジーニョを重用したパレイラは1994−1995シーズンのみで退任。
翌1995−1996シーズンにバレンシアの監督に就任した”賢人”ルイス・アラゴネスはマジーニョをパレイラほどは評価せず、マジーニョはバレンシアでの居場所を失っていきました。
当時のバレンシア会長パコ・ロイはマジーニョを早期に売却することを決断。
1994−1995シーズンにスペイン人FWフアン・サンチェスを売却していらい良好な関係にあったセルタにマジーニョの移籍話を”格安”でもちかけます。
最終的に当時のセルタ会長オラシオ・ゴメスはこのマジーニョ獲得を決断。
移籍にあたって支払われた金額はわずか1億3500万ペセタ。現在のレートで約81万ユーロ(9500万円)というものでした。
「ワールドカップ優勝代表チームのレギュラー」という肩書には23年前といえども不相応に思えるこの金額でのやり取りがなされていたことを知ったマジーニョは激怒。
「バレンシアは自分を”バナナでも売るかのように”放り出した」
と屈辱に打ち震えながらセルタでのキャリアをスタートしたのでした。
「第2の青春」を取り戻したセルタ時代のマジーニョ
ところが、移籍した先のセルタでは水を得た魚のようにセントラルMFとして中盤に君臨。
自由自在にセルタを操るコンダクターとして、当時やはり加入したばかりで精神的にムラがあり実力は折り紙付きながらも扱い難さでも超一流と言われたアレクサンデル・モストヴォイを手足のように動かしました。
遅れて加入してきたモストヴォイの同胞ヴァレリー・カルピンを右サイドで躍動させ、中央のモストヴォイや左サイドのイスラエル代表FWハイム・レヴィーヴォを効果的にプレーさせる中盤からの配球は見ているファンを熱狂させ、98−99シーズンに出場したUEFAカップでも存分にその実力を発揮しキャリアで最も充実したとも言えるプレーを披露すると同時に欧州中から称賛される結果になったのでした。
「セルタでプレーした4年間はキャリアで最も充実した4年間だった」
と後にマジーニョは語っていますが、34歳になった2000年夏にセルタを退団。
その後セグンダAのエルチェ、プリメーラ・ディビシオンのアラベス、ブラジルのヴィトーリアにそれぞれ短期間在籍したあと2001年に現役を引退しました。
ラフィーニャが辿った「軌跡」
現役引退後にスペインで最も充実したキャリアを過ごしたビーゴへ移住したマジーニョは、ビーゴでチアゴとラファエルという2人の息子をセルタのカンテラに入れてサッカーをプレーさせることになりました。
チアゴもラフィーニャも最終的にプロになったのはバルサに移籍してからですが、それでも実家があり幼少期を過ごしたビーゴとセルタに対しては思い入れが強いようで、ラフィーニャがセルタへ再度レンタルで加入したことを受けたコメントとして、チアゴは
1人のセルタファンとしてはラフィーニャが望む場所でプレーできるようになったことを嬉しく思う。自分もいつかそうなるのもしれない。
と語っています。
今回のラフィーニャ加入はセルタが積極的に動いた結果というよりは、どちらかというと棚ぼた式に転がり込んできた話である印象は否めません。
いざラフィーニャがバルサを出たがっているということが明らかになるなり、デニス・スアレスやサンティ・ミナのケース同様に今回もイアゴ・アスパスが「影のスポーツディレクター」として裏で手を引いていたことは間違いないようですが、今回のラフィーニャ加入に関しては外部要因のほうが大きいことは間違いないでしょう。
それがラフィーニャの父親マジーニョ同様バレンシア絡みだったというのは皮肉なめぐり合わせにも思えてきます。
当初ラフィーニャはバレンシアでプレーすることを望んでいると言われていました。
バレンシアのスポーツディレクター、マテウ・アレマニーと監督のマルセリーノ・ガルシア・トラルは両名ともラフィーニャの能力を高く評価しており、前線であればどこでも一定レベル以上のプレーができるというその柔軟性をチームに加えたいと考えていたようです。
ところが、肝心のバレンシア会長ピーター・リムはアレマニーとマルセリーノに対して
完全移籍、レンタル移籍、期限付き移籍を含むいかなるラフィーニャ移籍交渉も認めないし、仮に独断での合意があったとしてもクラブはそれを認めない。
とする通告を行ったと言われています。
憶測の域を出ない話ではありますが、ピーター・リムは自身の望む選手を獲得しようとせず、独自に調査した選手を獲得し結果を残し、ファンからの信頼が厚いアレマニーに相当な嫉妬をしていると言われています。
スペイン最大のスポーツ紙MARCAは
アレマニーによる個人的な説得や、マルセリーノが公にラフィーニャの必要性を説いても、彼らのどんな意見もリムの考えを変えさせることはできなかった。
と暗にリムの無理解と頑固さを揶揄しています。
出場機会を求め、プレーする場を与える提案ができるバレンシアでの新シーズンを待っていたラフィーニャは、最終的にこの状況を掴んだセルタとアスパスの説得に応じる形で2013−2014シーズン以来となる2度めのレンタル移籍によりセルタで再びプレーすることになりました。
ラフィーニャは父親と同じ道を辿るのか?
「本人にとっては不誠実な」バレンシア側の動きによってセルタへ移籍することになったマジーニョとラフィーニャ。
この記事で紹介したような過去があることを思えば、ラフィーニャの加入記者会見に同席したマジーニョが満面の笑みでラフィーニャのそばにいたことは決して形式的なものだけではなかったのかもしれません。
セルタファンとしても「マジーニョの息子」はいつでも特別な存在であり、「カンテラの失われた子どもたち」が戻ってくるのは常に歓迎です。
2019−2020シーズンが始まって既に3試合。
9月15日に再開される今シーズンのラ・リーガで、ラフィーニャは輝き、父親と同じように再び躍動するプレーを見せられるのでしょうか。
そうであってもそうでなくとも、セルタのファンは常にラフィーニャが再度バライードスのピッチに足を踏み入れる瞬間を待ち望んでいます。