2000年11月26日 スペイン王国 ガリシア州 ア・コルーニャ
| リーガ・エスパニョーラ 2000−2001シーズン 第12節 エスタディオ・ムニシパル・デ・リアソール |
||
| デポルティーボ・ラ・コルーニャ | 1−0 | セルタ・デ・ビーゴ |
| 76分:ジャウミーニャ | 得点者 | |
| 監督 | |||
| ハビエル・イルレタゴジェーナ・”イルレタ” | ビクトル・フェルナンデス・ブラウリオ | ||
| 背番号 | 先発選手 | 背番号 | 先発選手 |
| 13 | モリーナ | 13 | ピント |
| 15 | カプデビーラ | 6 | トマス |
| 20 | ドナート | 23 | ジャーゴ |
| 4 | ナイベト | 4 | カセレス |
| 2 | マヌエル・パブロ | 16 | ノグェロル |
| 14 | エメルソン | 18 | パブロ・コイラ |
| 6 | マウロ・シウヴァ | 15 | ドリーヴァ |
| 11 | トゥル・フローレス | 8 | カルピン |
| 21 | バレロン | 11 | グスタボ・ロペス |
| 18 | ビクトル | 10 | モストヴォイ |
| 9 | ディエゴ・トリスタン | 24 | カターニャ |
| 交代 | |||
| 3 | ロメーロ | 9 | パブロ・コウニャーゴ |
| 8 | ジャウミーニャ | 20 | ヘスーリ |
| 7 | ロイ・マカーイ | 7 | ヴァグネル |
第1〜4話はこちら




2000年11月26日深夜:ビーゴ市内
すれ違うコルーニャ人達から嘲笑と罵声を散々浴びながらア・コルーニャからビーゴにたどり着いた僕たちセルタファンは、試合開始前からのゴタゴタや試合中に投げ込まれた様々なもので汚れ、濡れ、僕も含めて中には負傷したものもいる中、ズタボロの状態でRENFEのビーゴ駅から各々の自宅へ散っていきました。
ほとんどのファンは口をきかず、わずか1時間半の車中で泥のように眠る者もいれば、怒りが収まらずにコルーニャ人に対する怨嗟の言葉を吐き続けている者もおり、僕はといえば初めて経験するガリシアダービーの壮絶な経験をどう消化したものか考えあぐねつつも、あまりにも無残な敗戦の残像を拭い去ることができていないままでした。
試合前に投げつけられたビール瓶の破片でそこそこざっくりと切れて痛む右足を気にしながらタクシーに乗り込んだ僕と友人のギジェルモは、一夜を明かすことになっていた彼の家に向かい、念のために消毒して手当てをしようと思っていました。
ギジェルモの家に付き、荷物を置いて一息付いてからスペインの家では一般的な、日本のリビングにあたる大広間であるサロンに向かった僕とギジェルモは、ギジェルモの母親イサベルに消毒液と絆創膏がないかと尋ねました。
なんでそんな物が必要なのか、と僕たちに聞き返そうとしたのでしょう。イサベルはこちらを振り向いてニコニコしていましたが、僕のジーンズが右足のスネ部分が切れて血が滲んでいるのを見ると、彼女の顔からサーッと血の気が引き大騒ぎをはじめました。
「チェマ、あんたいったいどうしたの!」
大慌てで戸棚から消毒液と絆創膏を引っ張り出しながらああでもないこうでもないと聞いてくるイサベルに事の次第をヘラヘラ笑いながら説明していると、話を聞きつけたらしい父親のパコがのそのそと巨体を揺らしながら現れ、僕が
「やあ、パコ。ただいm」
と言いかけたところで
「お前らはいったいなにをやっとるんだ、ばかもんが!!!!!」
とものすごい怒鳴り声を上げました。
貫禄のいい巨体を誇りながらも、いつもニコニコしていて穏やかなパコが初めて見せる険しい怒りの表情と怒声に僕はすっかり驚いてしまい、何も言い返せないまま直立不動で「あー」とか「えーと」とか言いながら黙っているしかできません。
パコのあまりの剣幕に何も言えない僕たちを尻目に、イサベルがもう一度何が起きたのかを説明すると、パコは再び僕たち2人をギロリと睨みつけて
「今聞こえた!さっさと着替えて戻ってこい!そしてそこに座れ!!」
と再び怒鳴りました。
イサベルに傷口を消毒してもらい、絆創膏を貼ってもらってから僕とギジェルモはすごすごと部屋に戻り、「やべーな、あれ」とかなんとか言いながらのそのそと着替え、また再びサロンに戻ったのです。
高そうなソファー(後から知ったら実際高級品だった)にどっかりと腰を下ろしてテレビを見ていたパコのもとに戻ると、パコは黙って別のソファーに目をやり、無言で「そこに座れ」と僕たちに指示します。
おどおどしながら座った僕たち2人を確認すると、パコはテレビを消して腕組みをしながら僕たちをしばらく眺め、それから大きく長く深い溜め息をつきながら口を開いたのでした。
「話は聞いた。それで、その足以外には何も怪我はないのか」
ない、と2人で同時に答えると「わかった」とだけ言うように1つ2つパコは頷き、それからゆっくりと口を開きました。
「試合は見た。コルーニャ野郎どもに負けたのは腹立たしいが仕方がない。それよりも、だ。今週あれだけ目立っていながらわざわざこれ見よがしに日本人がユニフォームを着て町を練り歩くなんてお前は何を考えているんだ!」
とパコは僕の目をまっすぐ見ながら語りかけてきたのでした。
つまりパコが言いたかったのは「ただでさえEl Día Despuésで大映しにされて目立っている日本人がセルタのユニフォームを着て歩いていたら絡まれるのは当たり前。それを予想しないで危険な振る舞いをするなんてもってのほかだ」ということだったのです。
アウェーのダービーにいくら好きでもウルトラでもない僕たちがセルタのユニフォームを着ていくことがどれだけ危ないことなのか、もし僕がもっと大怪我を負う羽目になっていたら誰が僕の家族に連絡を取れると思っていたのか、そこまで考えていたのか、などなど言われてみれば至極もっともなお説教を1時間ほどしてから、パコは戸棚から高そうなアルバリーニョのボトルを出してきて
「ともあれ戦ったお前たち2人はよくやった。他の3人にも言っておけ。まあ飲め」
と僕たちにそのアルバリーニョを飲ませてから、またのそのそと自室に帰っていきました。
「冬眠を邪魔されたクマが雄叫びを上げて、落ち着いてから巣穴に戻る時ってこんな感じなのかな」
などと状況に不釣り合いな余計なことを考えながら僕はパコから渡されたアルバリーニョをグラスに注ぎ、ギジェルモとそのグラスを空けてから眠りにつくことにしたのでした。
2000年11月27日:バライードス近くのバル
翌11月27日月曜日の午後にバジャドリーへ帰る予定にしていた僕は、ギジェルモの家で朝食を食べさせてもらい、大学に行くギジェルモと一緒に彼の家を出発。
電車の時間まではまだまだ時間があったので、バライードスでの試合前にいつも立ち寄るバルで新聞を読みながら時間を潰し、ついでに電車の中で食べるためのボカディージョ(スペインで定番の巨大バゲットサンド)を頼もうと思っていました。
道すがらの路面スタンド=キオスコでFARO DE VIGOとMARCAを書い、ブラブラとバライードスに向かう最中にもそのへんの子供が「Hola〜、アボナードの日本人」とかなんとか声をかけてきて、すっかり見知らぬ人間にもそこそこの素性を知られてしまっていることに僕は改めて気づいたのです。
バルに入ると僕の顔を見た瞬間、馴染みになっていたバルのオヤジがゲラゲラと大笑いを始めました。
「おまえ、面が割れててコルーニャ野郎にビン投げつけられたらしいじゃないかwww1人ぐらい殴り飛ばしてきたんだろうな?wwww」
バライードスの周辺には当然他にもセルタファンが住んでおり、その中の何人かとは顔見知りでしたし彼らもこのバルに入り浸る連中です。
恐らく早い時間に誰かが同じようにやってきて、「あの坊主コルーニャ野郎に襲われてたぞ」みたいなことを言いふらしたのでしょう。
話を聞くと、昨日の乱闘騒ぎのことはビーゴ中のサッカーファンがもう知っているようでした。
ビーゴはガリシア最大の都市かつスペイン最大の漁港を誇る町ですが、人口としては約30万人程度の中規模の町にすぎません。
その気になれば端から端まで歩いて回ることもできますし、23に区分けされた教区それぞれの中では住民がほとんど顔見知りに近いような環境です。
人から人へすぐに話は伝播し、たいていのことは翌日には知れ渡るようなレベルの社会が当時のビーゴにはありました。
ちょっとうんざりしながら「まったくひどい目にあったよ」と僕がぼやきながらFARO DE VIGOを開くのを見ながら、オヤジは
「怪我をしたのは災難だったが、まあこれでお前も一人前のセルティスタになれたと思えばいいだろうw」
と高笑いしながら僕が頼んだ生ハムとオムレツのボカディージョを作りに厨房へ消えていきました。
「何が一人前だよ」と思いながら奥さんが持ってきてくれたカフェ・コン・レチェ(カフェ・ラテ)を飲みつつFARO DE VIGOの記事をめくっていると、試合開始前の乱闘騒ぎでセルタのチームバスにレンガを投げつけた男が逮捕されたという見出しが載っていました。
さすがに器物損壊と威力業務妨害みたいなことにはなるんだろうと記事を読みながら僕はFARO DE VIGOを読み進めていき、あらかた読み終わったあたりでオヤジが戻ってきてアルミホイルで包んだボカディージョを2つ、ポンと僕の前に置きました。
「なんで?頼んだのは一個だよ?」
と僕が言うと、オヤジはニヤリと笑って
「お前が本物になった記念の奢りだwとっておけw」
と言い、僕が読み終わったFARO DE VIGOを取り上げると自分でそれを読み始めました。
「本物ってどういうこと?」
僕はちょっと気になったので席を立って駅に向かう前に聞いておこうと思って尋ねてみると、オヤジはFARO DE VIGOから目を離さずにこう言ったのです。
「わざわざビーゴからセルタのシャツを着てコルーニャくんだりまでダービーに行って、襲われてもひるまずに最後まで試合を見るやつが本物じゃなくてなんだってんだ。このへんに住んでてバライードスにも行かないくせにセルタが負けたら文句言うやつよりよっぽど立派だよ」
そんなもんなのかねー、と返しながら僕は荷物をかつぎ、オヤジが作ってくれた2個の巨大なボカディージョのお礼を言ってバルをあとにしました。
2000年11月27日:メディーナ・デル・カンポへ向かう車中にて
昼過ぎの電車で乗り継ぎ駅であるメディーナ・デル・カンポを目指し、まだ少し痛む右足に昨日のダービーの余韻を感じながらボカディージョの包みを開けると、まだかすかに温かいオムレツの香りと生ハムの香りが混じった何とも言えない美味そうな香りが鼻先にふわりと漂ってきたのです。
その香りを鼻と口で楽しみながら黙々と食べているうちに僕はふとオヤジの言った言葉を思い出しました。
これまでアウェーの試合には何度も行ったことがありましたが、確かに昨日ほど激しい経験をしたことが無かったのは事実です。
なるべくトラブルからは身を置くように行動してきましたし、巻き込まれたら後々面倒なことになることもよくわかっていたわけですから、リスクを避けてギリギリのところで自重するのは当たり前のことでした。
しかし今回だけは違いました。
トラブルに巻き込まれるかもしれないとどこかでは思いつつも、「これだけは逃すわけにはいかない」と思っていましたし、迷うことなくアウェーのダービーとはいえ周囲と同じようにセルタのシャツを身に着けていくことを選んでいたのです。
セビージャのおじさんに言われた「そんなことをしたら自動的にお前は奴らの敵だ」という言葉も思い出されましたが、正直こうなってしまっては「敵でけっこう」という気持ちになってしまっていました。
恐らくは、アウェーだからユニフォームを隠すとか、そういう種類の打算的な動き方をしなかったというところをもって、バルのオヤジは「本物」という言葉を使ったのかもしれません。
そう考えるとビーゴの地元民からそんなことを言われるのはなかなかに誇らしいことに思えてきて、僕は「今までセルタを見てきてよかった」とふと考えを巡らせました。
1999年の2月に初めてバライードスへ行った時から数えて、このガリシアダービーがだいたい20試合ぐらい目の生観戦だったはずなのですが、都合1年以上スタジアムに通ってセルタを見てきたという自分の中での歴史になにか意味があったことのように思え始めたのです。
僕は試合には負けたものの得るものはあったのかもしれない、ここからまた何か新しいことが経験できるようになるのかもしれない、と浮かれながら2つ目のボカディージョの包みを開けるのでした。
おわり
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