2000年11月26日 スペイン王国 ガリシア州 ア・コルーニャ
リーガ・エスパニョーラ 2000−2001シーズン 第12節 エスタディオ・ムニシパル・デ・リアソール |
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デポルティーボ・ラ・コルーニャ | 1−0 | セルタ・デ・ビーゴ |
76分:ジャウミーニャ | 得点者 |
監督 | |||
ハビエル・イルレタゴジェーナ・”イルレタ” | ビクトル・フェルナンデス・ブラウリオ | ||
背番号 | 先発選手 | 背番号 | 先発選手 |
13 | モリーナ | 13 | ピント |
15 | カプデビーラ | 6 | トマス |
20 | ドナート | 23 | ジャーゴ |
4 | ナイベト | 4 | カセレス |
2 | マヌエル・パブロ | 16 | ノグェロル |
14 | エメルソン | 18 | パブロ・コイラ |
6 | マウロ・シウヴァ | 15 | ドリーヴァ |
11 | トゥル・フローレス | 8 | カルピン |
21 | バレロン | 11 | グスタボ・ロペス |
18 | ビクトル | 10 | モストヴォイ |
9 | ディエゴ・トリスタン | 24 | カターニャ |
交代 | |||
3 | ロメーロ | 9 | パブロ・コウニャーゴ |
8 | ジャウミーニャ | 20 | ヘスーリ |
7 | ロイ・マカーイ | 7 | ヴァグネル |
セルタファンにとっての「不当な現状」
1997−1998シーズン。
ハビエル・イルレタゴジェーナ・”イルレタ”に率いられたセルタは奇跡的にUEFAカップ出場圏内でシーズンを終え、26年ぶりに欧州カップ戦への出場を果たすことになりました。
しかしシーズン終了と同時にイルレタはセルタを退団。
あろうことかセルタにとっては世界最大のライバルであるデポルティーボ・ラ・コルーニャの監督に就任することが発表されたのです。
セルタはサラゴサを1995年のカップウィナーズ・カップ優勝に導いた「攻撃サッカーの信奉者」として知られるビクトル・フェルナンデス・ブラウリオ監督を招聘することを決めていましたが、セルタファン達はハビエル・イルレタのこの「裏切り行為」に肩を落としながら激怒し、UEFAカップ出場を成し遂げたイルレタの功績を称える一方で、同時に複雑な感情が渦巻くようになりました。
※ちなみに95年のサラゴサでエースだったのが、後にジェフユナイテッド千葉の監督になるフアン・エドゥアルド・エスナイデルでした。
セルタファンにとって更に卑屈な感情を起こさせたのは、1999−2000シーズンにスペイン中を驚かせたデポルティーボのリーグ優勝です。
1993−1994シーズンの最終節でユーゴスラヴィア代表DFミロスラフ・デュキッチがバレンシアを相手にPKを外し、シーズンを通して首位を維持してきたデポルティーボはバルセローナに優勝を明け渡す結果になり、ア・コルーニャの町はデュキッチへの八つ当たりにも似たバッシングと初優勝を逃したショックで大騒ぎになっていました。
この後デュキッチがバレンシアへ移籍することになったのは、あまりのバッシングに家族ともども耐えられなくなったからだとも言われています。
しかし1998年のイルレタ就任以降にチーム力は更に向上し、当時テネリフェでプレーしセルタも同時に獲得を狙っていたオランダ人FWロイ・マカーイ、ブラジル人MFエメルソン、マジョルカのスペイン代表FWディエゴ・トリスタンなどを次々に獲得。
まだ30億円、40億円という金額が移籍市場における「大金」として認識されていた牧歌的な時代において次々と資金を投入し実力者を獲得したデポルティーボはついに1999−2000シーズンに初のリーグ優勝を達成。
その裏でセルタファンは「元々セルタの監督だったイルレタがデポルティーボで優勝した」という事実をうまく消化できずに鬱屈した気持ちを貯め続けていました。
例えばロイ・マカーイ、エメルソン、ディエゴ・トリスタンの獲得に関しては最後までセルタとデポルティーボの交渉レースがせめぎあいを続けており、最終的に決め手になったのはア・コルーニャ県の県議会議員を長年勤め、当時デポルティーボの会長として辣腕を振るっていたアウグスト・セサル・レンドイロが投入した大量の資金でした。
セルタファンの中には「レンドイロがいなければイルレタもカネに目がくらんでデポルに行くこともなく、マカーイもエメルソンもトリスタンもセルタが獲得できたはず」=「ひょっとしたらセルタが1999−2000シーズンの優勝チームだったかもしれない」という、ありもしない妄想を口にする者まで現れる始末。
かろうじてセルタファンがデポルに対して「一矢報いた」と溜飲を下げることができたのは、2000−2001シーズン開幕前に「デポルと仮契約を結んだ」と報道されていたマラガのFWカターニャを、正式契約調印日にマラガの空港で捕まえ新たな条件を提示し、そのままビーゴに連れて行ってデポルからかっさらうような形で獲得した事実のみでした。
もしかしたら自分達の旗の下でプレーしていたかもしれない選手と監督が栄光の時代を迎えようとしている現実を、僕たちセルタファンはなかなか受け入れることができないまま2000−2001シーズンに突入していたのです。
予兆
2000年11月当時、大学の関係でバジャドリーに住んでいた僕はセビージャダービーでのある意味衝撃的な体験を終えて自宅に戻り、週末のガリシアダービーに向けての予定をビーゴの友人達と話し合っていました。
2000年当時はまだiPhoneはおろか今の形のスマートフォンというものは世界に存在せず、携帯電話インターネットはスペインで整備されていない状況。
SMSも同じ携帯キャリア同士でしかやり取りできなかったため、予定の調整はもっぱら電話での通話かメーリングリストを使ったテキストのやり取りが普通で、しかもインターネットは常時接続ではないダイヤルアップ回線しかありませんでした。
僕はスペイン留学中ずっとホームステイで過ごしていたのですが、ステイ先の電話回線を借りていちいちメールのやり取りをするのは気が引けたので、バジャドリーで最も伝統的かつ最も美味しいバルが軒を連ねるパライーソ通り近くのネットカフェを根城にしながら友人達との予定調整を行っていました。
試合が行われる11月26日は日曜日。
アンダルシアではまだ日中30度近くにもなるスペインですが、バジャドリーのあるカスティージャ・イ・レオン州は「スペインの冷凍庫」と呼ばれるほど冬場は極寒の地域です。
そこよりも北に位置するガリシアやアストゥリアス、カンタブリアやバスクといった北部地域一帯も、中部よりは湿気があるとはいえ冬場の寒さが厳しいことには変わりなく、防寒対策は必須でした。
防寒対策として何が必要かを話し合い、必要事項が確認できた結果、友人達と合流してからア・コルーニャに向かうことが確定していた僕は金曜日に大学の授業が終わりしだい長距離バスでビーゴに向かい、友人の家に一泊してから5人でア・コルーニャを目指すことになりました。
スペインの国鉄RENFEを使った場合はビーゴ駅からア・コルーニャ駅まで1時間20分。
バスや車を使っても1時間40分程度の距離です。
友人の何人かは車を持っていましたが、どうせ酒を飲むことになるのは目に見えていましたし、電車でもバスでも近い距離なので行きは片道の切符で電車。帰りは状況を見てバスか電車どちらかを選ぶということで話はまとまりました。
金曜日の午後14時に授業を終えた僕はバスでメディーナ・デル・カンポという、長距離バスと長距離列車の接続が行われる町まで行き、そこで長距離列車TARGOに乗り換え電車でビーゴに向かったのです。
夜11時頃にビーゴに着き、友人と合流してビーゴ港まで繰り出し、ガリシア名産の白ワイン「リベイロ」の盃を掲げながら飲み歩いていると、とあるバルで1人の若者が興奮した様子で僕たちに近づいてきてこう言いました。
「おい!あんた今週のEl Día Despuésに出てただろ?」
やっぱり誰か見ていたか、と僕はこのとき軽い気持ちで考えたのですが、本来ならこの時点で僕たちはもっと注意すべきだったのです。
「El Día Después=エル・ディア・デスプエス」とは、スペインの有料チャンネルCANAL+(カナル・プルス)で毎週月曜日に無料放送されていたリーガ・エスパニョーラのレビュー番組です。
前週の試合結果をダイジェストで伝え、そのうち一試合を選んで「La Polemica」というコーナーで疑惑の判定やプレーをひたすら検証。最後に5分ほど試合以外の面白いネタを紹介するという構成がお決まりの番組でした。
番組のメイン司会者はジュセップ・ペドレロルというカタルーニャ人のジャーナリストで、相棒はマイケル・ロビンソンという元オサスーナでプレーしたイングランド人ジャーナリストでした。
その週の月曜夜20時から放送されたEl Día Despuésの最後の5分間で「セビージャダービーで見つけた面白いファン」というタイトルとともに、Antena3のインタビューに答えた後のトドメに「・・・とはいえ、僕本当はセルタのアボナードなんですけどねw」という一言と共にアボナードのカードを誇らしげに掲げる僕の姿がどアップで映し出されていたのです。
ペドレロルもロビンソンも爆笑。スタジオ中が驚愕のコメントで溢れ、
「日本人だぞ?ソージ・ジョーがいたバジャドリーじゃないのかよwww」
とか
「セルタって・・・w なんでセルタなんだ?セルタは中国となんか関係あったっけ?」
とかいう発言が複数のゲストから飛び出していました。
ここで「中国」という言葉が出ていることには理由があります。
驚くべきことに世界には「東アジアは全部中国で、日本は中国の州の1つ」だと思っている人間たちが少なからず2019年現在でも存在するのです。
当時2000年のスペインでもそれは同様で、しかも現在と違い日本人選手は何一つスペインで結果を残せていませんでした。
城彰二のバジャドリーでのプレーはわずか15試合でしたし、結局スペイン語を話すことができないままスペインを去っているため、メディアの彼に対する印象は「スペイン語を話せないよくわからない中国人」のようなものでした。
何を考え、どういう思いでプレーしているのか。
どんな努力の上で2ゴールをあげることができたのか。
そんなことをスペイン語で片言でも自分の口から話すことができれば、恐らくあの当時に城があそこまでネタとして扱われることはなかったのでしょう。
それはともかく、少なくとも僕はEl Día Despuésの中でハッキリとスペイン語でコメントは残していたわけですが、19年前のスペインでは「アジア人がどこかのクラブのアボナードになっている」ことは「奇妙なこと」であり、「意味不明な行動」でしかありませんでした。
それがセルタのような中堅地方クラブであればなおさらなのですが、少なくともビーゴの人間にとっては良い意味で「面白いこと」だったようです。
「あんたすごいな!外国人がセルタのアボナードになったのなんて初めてじゃないのか?」
興奮して話しかけてきた彼は中国人が、と言いかけたのですが、僕の友人が「彼は日本人だ」と助け舟を出してくれたおかげで僕は口汚い言葉を使って自分が中国人ではないことを彼に言う必要がなくなり助かりました。
このことが何を意味するのか?
El Día Despuésは有料放送CANAL+の番組とは言えこの枠は無料視聴が可能で、CANAL+は全国放送です。放送時間が夜20時ということは、スペインの一般家庭ではほとんどの家族が揃って家にいる時間であり、つまりスペイン全土でかなりの人数がその放送を見ていたことを意味します。
僕はちょっと有名人にでもなった気分で調子に乗りながら、セルタを見るようになったきっかけや今までどれぐらいの試合を見てきたのかなどを彼と語り合い、夜も更けた午前3時頃まで彼らと飲み歩きました。
小イワシの酢漬けやムール貝のオリーブオイル和え、ガリシア風タコの煮込みパプリカ和えや、調子に乗って生牡蠣のレモン絞りまで頼みながら飲み、食い、歌い、定番のデポルティーボをけなす歌を港中の人間で歌いながら夜を明かしたのでした。
「イルレタの禿頭に髪の毛一本残すな!」
その夜の最後に誰かが叫んだその言葉は、夜の帳が降りたビーゴ湾に高々と響いていました。
つづく
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