【観戦記】ガリシアダービーでデポルファンに襲撃された話(2)

La Liga情報

2000年11月26日 スペイン王国 ガリシア州 ア・コルーニャ

リーガ・エスパニョーラ 2000−2001シーズン
第12節
エスタディオ・ムニシパル・デ・リアソール
デポルティーボ・ラ・コルーニャ 1−0 セルタ・デ・ビーゴ
76分:ジャウミーニャ 得点者
監督
ハビエル・イルレタゴジェーナ・”イルレタ” ビクトル・フェルナンデス・ブラウリオ
背番号 先発選手 背番号 先発選手
13 モリーナ 13 ピント
15 カプデビーラ 6 トマス
20 ドナート 23 ジャーゴ
4 ナイベト 4 カセレス
2 マヌエル・パブロ 16 ノグェロル
14 エメルソン 18 パブロ・コイラ
6 マウロ・シウヴァ 15 ドリーヴァ
11 トゥル・フローレス 8 カルピン
21 バレロン 11 グスタボ・ロペス
18 ビクトル 10 モストヴォイ
9 ディエゴ・トリスタン 24 カターニャ
交代
3 ロメーロ 9 パブロ・コウニャーゴ
8 ジャウミーニャ 20 ヘスーリ
7 ロイ・マカーイ 7 ヴァグネル

第1話はこちら

【観戦記】ガリシアダービーでデポルファンに襲撃された話(1)
現地観戦記連載シリーズ第2弾「ガリシアダービーでデポルファンに襲撃された話」第1話です。2000年11月に行われたガリシアダービーを巡る騒動を中心に地方ダービーの機微をお楽しみください。

「ダービーマッチ」とはなんなのか

「ダービーマッチ」の起源と語源

世界には様々なダービーマッチがありますが、そもそもなぜ「ダービーマッチ」という言葉が生まれたのでしょうか?

いくつか諸説ある中で比較的主流な「語源」だと言われているのが、イングランド中部ダービーシャー州の都市ダービーで「2つの教会区に分かれて”オールド・フットボール”の試合が行われていた」という説です。

その後様々な歴史の変遷を経て、国ごと、地方ごと、リーグごとに様々なライバル関係が生まれていき、それらを総称して「◯◯ダービー」という名称で呼ぶようになった結果が現在の各ダービーマッチになっていると言われています。

ダービーマッチとは「ダービーマッチをやろう」と人為的に作られたものではなく、歴史と因縁、経緯と結果が複雑に絡み合って自然発生的に生まれたライバル意識から生まれ出る「歴史の落とし子」のようなものだと言ってもいいでしょう。

スペインにおける様々な「ダービーマッチ」

スペインにも様々なダービーマッチがありますが、それら各ダービーの持つ雰囲気はそれぞれ異なります。

例えばアトレティック・ビルバオとレアル・ソシエダの間で行われる「バスクダービー」は、ライバル関係にある両チームの性格上激しいものではありつつも、どこか祝祭的な雰囲気を持ったダービーマッチです。

多少はファン同士による小競り合いがあるとはいえ、暴力的な雰囲気はあまり見受けられません。

前回の連載記事で紹介したセビージャダービー、そしてレアル・オビエドとスポルティング・ヒホンの間で行われるアストゥリアスダービーは、少なくとも僕が目にし耳にした話の限りではなかなか暴力的な雰囲気が見られます。

セビージャダービーの試合前日にセビージャファンがベティスの練習場へ殴り込み、当時のGKトニ・プラッツの車にレンガを投げつけて破壊したとか、セビージャのペーニャが集まるバルに殴り込んだベティコ達が逮捕されたとか、試合数日前にヒホンからオビエドに乗り込んだスポルティンギスタ達がオビエドの街中にある噴水やベンチを破壊して回り、かけつけたオビエドファンと大乱闘を繰り広げたとか、そういう話は枚挙にいとまがありません。

スペインで最も有名なダービーといえば、バルセローナとレアル・マドリーの間で行われるエル・クラシコがありますが、試合そのものは荒れたり激しい内容のライバル意識むき出しな展開になることが多いものの、セビージャやアストゥリアスと違ってバルセローナとマドリーの2都市そのものの距離が離れていることもあって、不思議とファン同士の過激な暴力沙汰というのはあまり表に出てきません。

では、今回の連載で題材としているガリシアダービーはどんなダービーなのでしょうか?

ガリシアダービーの歴史

ガリシア州とは?

「ガリシア」とはスペイン北西部に位置するガリシア州のことを指しており、州全体が西を大西洋に面し、北をカンタブリア海に面した地域です。

車を飛ばして2時間ちょっと南に行けば、FCポルトの本拠地であるポルトまで目と鼻の先、というポルトガル国境に面しているのがガリシア州です。

主な産業は金融(銀行業)、漁業と食品加工業、そして重工業が3本柱で、アパレルブランド「ZARA(サラ)」を保有するインディテクス社がア・コルーニャ近郊のアルテイショに本社を構えていることでも知られています(ただしアパレル産業が主要産業かという点には若干疑問が残ります)。

また農業も盛んで白ワインの生産も行われており、「リベイロ」と呼ばれるフルーティーで口当たりのいいさっぱりした白ワイン、リベイロの上位種としての位置づけである「アルバリーニョ」は、海に面したガリシアの名物である海産物を活かした地元海鮮料理との相性が良いことで有名です。

ガリシア最大の都市であるビーゴとア・コルーニャ

そのガリシアの中で人口、町としての規模も似通っているビーゴとア・コルーニャはスポーツの面のみならず町同士そのものもライバル意識が強く、例えばビーゴの地元紙FARO DE VIGOとア・コルーニャに本社を置くLa Voz de Galiciaはメディアとしても対抗意識を燃やしています。

セルタのホームスタジアムであるバライードスのすぐ近くにあるプジョー・シトロエンの工場で生産される車両台数はヨーロッパでも当時有数の生産量を誇っており、ビーゴ市民の多くが地元に就職する際にプジョー・シトロエンの工場を就職先の候補にしています。

また、ビーゴの工場で生産されたプジョーやシトロエンの車両はスペイン国内で広くタクシー用車両として使われており、ガリシア各地で走っているプジョー、シトロエンの車両を使ったタクシーはほとんどがビーゴ工場で生産されたものであることは有名です。

一方で観光地としてはア・コルーニャの方が一歩先を行っていると行っても過言ではなく、デポルティーボのホームスタジアムであるリアソールは、その名の通りリアソール海岸沿いに立っているため、サンタンデールのエル・サルディネーロと並んで「海岸にあるスタジアム」としてスペイン国内でも有名ですし、ビーゴもア・コルーニャも海に面した町であるため、町の成り立ちや風土なども似通っているところが多いのです。

語り始めるとキリがなくなるビーゴとア・コルーニャのライバル関係は、ざっくり乱暴にまとめてしまえばいわゆる「近親憎悪」に近いものがあるでしょう。

人口から何から何まで似すぎているためにお互いがお互いを憎み合うというよくあるパターンの1つであると言えます。

「憎み合う」というと日本のファンにはピンとこないと思いますが、これは「あいつらはライバルだ」と思っているとかそういう生易しいものではありません。

町を上げてもう片方をけなす歌を大喜びで歌い笑顔になるぐらい、ビーゴとア・コルーニャは互いを嫌い憎み合っているのです。

ビーゴには「コルーニャ人はトルコ人、デポルティビスタの頭は空っぽ、コルーニャとリアソールは売春婦の巣窟」という歌詞の歌があり、ア・コルーニャには「ビーゴにはNO!とにかくNO!理由はともかくビーゴはNO!ビーゴ人は全員ポルトガル人売春婦と海賊の落とし子」という歌があります。

現地を離れている今だからこそこんな歌詞を冷静に書いていられますが、当事者になっていた2000年当時にこれを歌い合っていた僕たちの顔は、それはそれは憎しみに満ちた笑顔だったはずだろうと想像できます。

ア・コルーニャには彼らの言い分があるのでしょうが、彼らと会話が成立することなどありえないと僕たちは思っているので、あくまでもこのブログでは僕たちセルタファンの言い分のみを書きます。

セルティスタとデポルティビスタ

セルタファンにとってデポルティーボファンというのは単なる暴徒の集団で、下品極まりなく教養や常識のかけらも持ち合わせていない世界最低の人種です。

例えばある年に行われたバライードスでのガリシアダービー3日前のこと。

デポルティーボのゴール裏過激派集団として当時から悪名を轟かせていた「リアソール・ブルーズ」の構成員10名ほどが、朝からご苦労なことにわざわざビーゴまで車でやってきました。

彼らはトランクにレンガ、岩、ビール瓶などを詰め込み、ご丁寧にデポルティーボの旗をひらつかせながらバライードスに乗り付けると、満面の笑顔で先程の

「ビーゴにはNO!とにかくNO!理由はともかくビーゴはNO!ビーゴ人は全員ポルトガル人売春婦と海賊の落とし子」という歌を歌いながらトランクを開け、持ち寄ったガラクタをバライードスに入居するセルタのオフィシャルショップ、旅行代理店、ソシオ事務所のガラス窓に次々と投げつけ破壊の限りを尽くしました。

トドメには黒いスプレーでバライードスの正面ゲートから15mほどの長さに渡ってビーゴを侮辱しセルタを罵倒する言葉の数々を羅列。

満足しきった表情で意気揚々と車に乗り込みそのままア・コルーニャへ凱旋していく様子が防犯カメラに全て録画されており、数日後にビーゴへ舞い戻りダービーのためにバライードスへ入場しようとした際に彼らはビーゴ市警察に逮捕されたのです。

他にも別の年には、負けた腹いせにバライードスのアウェー側エリアで数100席分の座席を破壊し火をつけたりと、彼らは傍若無人なふるまいの限りをビーゴで働いており、サッカーにあまり興味のない市民ですら眉をひそめる始末でした。

ガリシアダービーの発端

このように毎度の恒例行事として騒動が巻き起こるガリシアダービーはどのようにして始まったのでしょうか。

セルタ・デ・ビーゴとデポルティーボ・ラ・コルーニャという名前でのガリシアダービーがスペインサッカーにおけるリーグ戦の歴史に初めて刻まれたのは1929年のことでした。

1928年に始まったスペインの全国リーグであるリーガ・エスパニョーラ1部にはセルタもデポルティーボも参加できておらず、初のガリシアダービーは現在でいうセグンダ・ディビシオンA、つまり2部リーグで行われています。

そしてこの「リーグ戦でのガリシアダービー初戦」はデポルティーボのホームスタジアムであるリアソールで行われ、デポルティーボが4−2で勝利しています。

デポルティーボは1906年創立のクラブですが、セルタは1923年にレアル・ビーゴ・スポルティングとレアル・クルブ・フォルトゥーナという、ビーゴを本拠とする2つのクラブが合併して創立されたクラブであるため、現在の正式名称で見た場合はデポルティーボの方が歴史のあるクラブということになっています。

セルタの前身の1つであるビーゴ・スポルティングは1910年のコパ・デル・レイでデポルティーボに5−0の大勝を収めているのですが、この時点で両クラブの対立は目に見えるほどのものではありませんでした。

状況が大きく現在のライバル関係に傾いていったのは、まさに「セルタ・デ・ビーゴ」誕生の瞬間でした。

歴史的な「裏切り」

ビーゴのあるポンテベドラ県出身のスペイン代表選手ルイス・オテーロはビーゴ・スポルティングの象徴的選手で、いわばスペインとビーゴを代表する選手でした。

オテーロはビーゴ・スポルティングとフォルトゥーナの合併を良しとせず、両クラブ首脳陣の決定に最後まで異議を唱え続けていました。しかしクラブ間での合意が尊重された結果、最終的に両クラブの名前は消滅。

その瞬間、スペインサッカーの歴史に「セルタ・デ・ビーゴ」の名前が登場することになったのです。

ところが怒りが収まらなかったのがオテーロです。

想像の域を出ませんが、恐らくビーゴ・スポルティングとフォルトゥーナの関係は、例えて言うなら現在のセビージャとベティスのようなものだったのでしょう。

果たしてセビージャとベティスが合併するなどということを受け入れられる選手やファンは存在するのでしょうか?今ならまずありえないことだと思います。

怒り狂ったオテーロは自分と同様にクラブ合併に反対する両クラブの主力選手数人を引き抜き、電撃的にデポルティーボに移籍。

ガリシア州選手権やコパ・デル・レイで好成績を残していたビーゴ・スポルティングとフォルトゥーナが合併することでビーゴのチームが更に強力になり、リーガ・エスパニョーラ1部に打って出るという目標に胸を踊らせていたビーゴ市民の間には大変な衝撃が走りました。

サンティアゴ・デ・コンポステーラを中心にスペイン北西部を南北に縦断するガリシアで、北のラ・コルーニャと南のビーゴという位置関係にある両都市は、ヨーロッパの各国でしばしば見られるように地域内での南北関係を凝縮した関係にありました。

よりによってコンポステーラならまだしも、デポルティーボにビーゴから移籍するなどということはビーゴ市民にとっては到底受け入れられるものではなく、その筆頭者がビーゴを代表するルイス・オテーロであればなおさらのことです。

自分達の英雄が対抗都市の看板を背負うなどということは、「本来なら起きるはずもなく、起こってはいけないこと」だったのです。

コイーアでもたげ始めたダービーの「芽」

こうして生まれた「セルタ」ファンのデポルティーボに対する憎しみは1927年に最高潮に達し、当時まだ行われていたガリシア州選手権の首位攻防戦がビーゴ市内のコイーア競技場で開催されたのですが、詳細は明らかにされていないもののその時点で選手権首位だったデポルティーボの選手は緊迫した試合と会場の雰囲気に耐えかねてハーフタイムで試合会場を撤退。

後半に登場したセルタの選手達は容赦なく無人のデポルティーボゴールに対してボールを蹴り込み続け、最終的に13−0という大差でデポルティーボを下した記録が残っています。

全国リーグであるリーガ・エスパニョーラが始まったのは1928年のことですから、この13−0という記録は今となってはラ・リーガの公式記録には残っていないものの、スペインサッカーの歴史を紐解けば人の目には触れる形で残されている記録です。

セルタファンからすれば「けしからんコルーニャ達を木っ端微塵にした試合」であると同時に、デポルティーボファンからすれば「非公式記録にいつまでもこだわる情けない南部野郎たちの心の拠り所」というわけです。

こうして「やられたらやり返す」を繰り返し続けてきた結果、徐々にセルタ対デポルティーボの試合は「ガリシアのただの1試合」から「ガリシアで最も優れたクラブはどちらか」を決める戦いへと徐々に昇華。

90年代にガリシア州内で沸き起こった「ベベトとグデリはどちらが優れたストライカーなのか」という論争。

98年に騒動となったハビエル・イルレタのデポルティーボ監督就任。

1999−2000シーズンのデポルティーボによるリーグ優勝。

さらにはチャンピオンズリーグ出場を果たした「スーペル・デポル」とUEFAカップで旋風を巻き起こした「エウロ・セルタ」の時代へと繋がっていくのです。

外国人がセルタのファンであるということ

僕は確かに間違いなくセルタファンではありますが、れっきとした日本人でもあります。

日本人がセルタのファンであり、日本人として恐らくは初めてのアボナードだったはずで、このこと自体当時は珍しいことだっためにバライードスのスタンドでも街中でも、年配のセルタファンから可愛がってもらったものでした。

しかしある時立ち寄ったビーゴ港を正面に見据える年季の入った石造りのバルで、生まれた時からソシオ・アボナード(=株式と年間チケット双方の保持者)であるという当時68歳の男性から、上記のようなガリシアダービーの歴史とセルタの成り立ち、そしてビーゴとア・コルーニャがどれほど前からいがみ合ってきたのかを滔々と聞かされた時に僕は思い知ってしまったのです。

本当に。

まったくもって本当に悔しくて残念でたまらないその事実は、初めて気づいた時に僕を打ちのめしました。

「結局自分は永遠に部外者なのだ」

という変えようもなく変わりようのない、そして決して動かない事実と現実を僕はこの話を聞いたときに思い知りました。

こうしてこの話を書いていられるのは僕がこの男性から「坊主、そこまでセルタが好きなら教えておいてやろう」と気に入ってもらえたから当時知り得た話です。

しかしこれは結局のところ「誰かから聞きかじった話」のよくある1つでしかありません。

ところが彼は違います。

ビーゴで生まれ、ビーゴで育ち、少年時代からバライードスに通い数限りない選手達がやってきては去るその様子をずっとバライードスのスタンドから彼は見続けて来たのです。

彼にとって「セルタのファン」とは「なるもの」ではなく、「そうあるもの」であり、やめるやめないの話でもありません。

この男性と似たような境遇のビーゴ人にとって、セルタのファンたることは文字通り「人生の一部」であり、吸っては吐く「呼吸と同義」であり、それはある意味で「血」だと言いかえることもできるのかもしれません。

これは僕のような外国人の1人に過ぎない人間には、どう頑張りあがいてもたどり着けない境地のようなもので、ビーゴ出身の女性と結婚し子供を授かることになるのだとしても、僕だけはその「血」を手に入れることは未来永劫絶対に訪れない事象なのです。

バライードスでのダービーよりも、リアソールで行われるアウェーのダービーを見に行くことに僕が当時こだわったのは、ビーゴ人のセルタファンと体験する「アウェーのガリシアダービー」を経験することで少しでも彼らとの連帯感を肌で感じ、僕自身も彼らが息をするように発するデポルティーボとア・コルーニャに対する敵対心を少しでも吸収し、一体感のような何かを手に入れたいと願っていたからなのでしょう。

どれだけ近づけたとしても最後の0.1mmだけが届かない。

それがわかっていながらも、可能な限り彼らに近づきたい。

僕のスペイン留学はこういった願望も含んだものでした。

僕たちを乗せたRENFEのレヒオナルという普通列車がサンティアゴ・デ・コンポステーラを通り過ぎるあたりで友人達にこの話をすると、そのうちの1人であるギジェルモがニヤニヤしながら僕の肩を一発「バーン!」とひっぱたいて言いました。

「あんなクソみたいな町に一緒に行くんだから、あと0.00001mmぐらいまで来てるんじゃないか?w」

残りの3人もヘラヘラと笑いながら、ビーゴ駅で買ったものを詰め込んだビニール袋からガリシアの地ビール「Estrella Galicia」のビンを取り出し、僕に向かって一本差し出しながらこう言いました。

¡ Qué P◯ta CORUÑA ! ¡ Qué P◯ta RIAZOR !

僕にとっては今に続くセルタファンとしての「生誕の時」が、あと数時間後に迫っている車中での出来事でした。

 

つづく

第1話はこちら

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第3話はこちら

【観戦記】ガリシアダービーでデポルファンに襲撃された話(3)
「ガリシアダービーでデポルファンに襲撃された話」連載第3回です。ア・コルーニャに到着した僕たちは、試合開始前の段階でとんでもない騒動に巻き込まれます。「アウェー」が何なのかを僕は思い知るのでした。

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