13年目を迎えたカルロス・モウリーニョ体制のセルタ
2006年6月16日に大株主となりセルタ・デ・ビーゴの会長職としてクラブの実権を手中に収めた現会長のマヌエル・カルロス・モウリーニョ・アターネス。
13年という在任期間は過去のセルタ・デ・ビーゴにおいて最長の在任期間となっており、モウリーニョ以上にセルタの会長職を勤めた人物はいません。
前会長のオラシオ・ゴメスの在任が1995年〜2006年の11年間。
言い方は大げさですが、モウリーニョはセルタの会長としてまさに「前人未到の領域」に立ち入っていると言えるでしょう。
新会長就任直後の騒動
2018−2019シーズンは綱渡りのような残留だったとはいえ、プリメーラ・ディビシオンへの安定した定着を実現しかけている今でこそファンからの信頼と称賛が得られているモウリーニョですが、これまでもこのブログでお伝えしてきたように就任当初の反応は決して芳しいものではありませんでした。
それもそのはず。
モウリーニョが会長に就任した2006−2007シーズンに、セルタはリーグ戦を18位で終え2004−2005シーズンに引き続き、たった2年でセグンダ・ディビシオンAへ降格しているからです。
1992−1993シーズンから2003−2004シーズンまでの11年間をプリメーラで過ごしていたとはいえ、その期間がなければプリメーラとセグンダで過ごしてきた期間がほぼ半々。
その過去の事実は「10年一昔」という言葉が示唆する通り、多くのファンから「自分たちはもともとエレベータークラブだった」という記憶を薄めていました。
1992−1993年の昇格から毎年地道に補強を繰り返して徐々にチーム力を高めていったこと。
ヴラド・グデリやフェルナンド・カセレス、マジーニョやアレクサンデル・モストヴォイにヴァレリー・カルピン、そしてグスタボ・ロペスのような傑出したキャプテンシーを持つ選手達の獲得は棚ぼた式のものであり、多分に運が味方した獲得劇であったことなどをファンは忘れかけている頃でした。
そして前会長のオラシオ・ゴメス・アラウホを始めとする旧経営陣はセルタの財政状況の詳細な説明をファンに行っておらず、もともと株主としてセルタの株主総会で自身が所有する企業が発言権を持っていたモウリーニョが会長に就任。
その会長就任後に明らかにしたセルタの経営状況に関する報告を目にした時、ファンの全身に戦慄が走ることになったのです。
「このままでは破産し、クラブが消滅する可能性がある」
突然発表されたその事実は、「降格しても前のようにすぐに戻ればいい」「グスタボ・ロペスが残ってくれればチームはまた立ち直れる」と前向きな希望を持っていたファンの間に混乱をもたらします。
UEFAカップに連続出場すること5回。
チャンピオンズリーグにも出場し欧州でも一目置かれる存在になったはずのセルタが破産し、消滅する。
つい昨日まで想像もしていなかった最悪の可能性が突然目の前に突きつけられた時、あまりの混乱にファンの怒りの矛先は突然交代して現れた新会長のモウリーニョに向かいます。
タイミングが悪かったことは否めません。
これまでチームの強化、有望選手の獲得、欧州カップ戦への出場を次々と成し遂げてきた前会長から会長職を引き継いだ後にいきなり降格。
「補強はどうするのか」
とメディアやファンから詰め寄られても「考えはある」と繰り返すばかりで具体的な施策を何も示さない新会長とスポーツディレクター。
今から思えば「考えはある」としか言えない状況だったのだろうと想像はできますが、当時のファンは僕も含めてすっかり冷静さを失っていました。
その当時に僕が書いていたセルタ絡みの文章を読み返すと、モウリーニョと経営陣に対する恨みつらみや罵倒の言葉がこれでもかと並んでいます。
モウリーニョと新経営陣に対するファンの怒りが頂点に達したのは2007−2008シーズンの開幕前、後ろめたさから身を隠すようにして実施されたグスタボ・ロペスとの契約問題が原因でした。
降格と同時にグスタボ・ロペスは「また一緒に昇格する。必ず自分はセルタに残るし、クラブにもその旨は伝えてある。新シーズンも一緒に戦ってほしい」とメッセージを出しており、ファンはその言葉を信じて「グスタボがいるならまた大丈夫だ」と根拠の無い安心感を胸にセグンダでの新シーズンに備えている最中でした。
プレシーズンの合宿にグスタボ・ロペスが現れず、FARO DE VIGOを始めとするメディアにも一切情報が出てこない。まるで存在が立ち消えてしまったかのような状況が続くにつれてファンは徐々に不安感を募らせていきました。
最終的に明らかになったのは、グスタボ・ロペスに対してセルタが「0ユーロ」と書かれた契約書を提示したこと。
あくまでも「クラブとしてはこの条件で契約延長は提示した。選手側の都合で契約締結に至らず交渉が決裂した」という体裁をセルタは貫きました。
グスタボ・ロペス側が納得、あるいは許容できる条件での契約を締結してしまえば最悪のケースが起きた時に違約金の支払いが発生します。当時のセルタに所属していた外国人選手たちの契約には自宅、車など日常生活面での保証が含まれており、特に南米の選手たちのケースはシーズン中の帰国費用も含めた渡航費の項目も契約に含まれていました。
年俸だけが問題ではなく、上記のような「経費」面でもグスタボ・ロペスといかなる条件で契約を延長したとしても、結局セルタにとっては経理上の莫大な負担になることは明らかだったわけです。
冷静に考えればそんなことはすぐにわかることではあったはずなのですが、そう考えられるファンは当時多くはありませんでした。
結局グスタボ・ロペスはセルタとの契約を延長することなく退団。
ビーゴでファンの前に再び姿を見せることもなく、最終的にファンがグスタボ・ロペスの退団を知ったのはFARO DE VIGOが唐突に淡々と伝えた新聞記事が掲載されたあとのことです。
この記事が掲載されると同時に大多数のファンは怒り狂いました。
2度の降格に際していの一番で残留を表明し、2004−2005シーズンのセグンダAでは獅子奮迅の活躍と動きを見せて昇格を実現させたキャプテン。
再度の降格にも関わらず、再び残留を表明しファンに結束を呼びかけて「セルティスモの権化」と化していた当時のセルタを象徴する存在に対する扱いは、ファンには受け入れられるものではありませんでした。
バライードスのクラブ事務所に大量のファンが押しかけ、「モウリーニョは出ていけ!」と合唱。
「Gustavo , SI ! Mouriño , NO ! 」
現実を把握できていないファンの壮絶な非難に対して、モウリーニョも経営陣も全くなんの反応も示さず、その静かな反応が更にファンの神経を逆なでする結果になる始末。
その努めて冷静で冷淡な様子に対して、とうとう地元メディアの記者たちまでもがいらいらを募らせ始め、いくつかの記者会見ではFARO DE VIGO、TVG、La Voz de Galiciaの記者達が「ファンの不満に対して一体どのような弁明を行うつもりで、補強や経営改善の施策はどう考えているのか」とファンを代弁するような質問を投げかけるようになりました。
それでもモウリーニョと経営陣は「考えがある。補強も考えている。結果を見ていてほしい」と繰り返すばかり。
そうかと思えば「カンテラを中心にしたクラブへ脱却し、理想的な姿を作り上げていく」と理想論を語るモウリーニョに対して、ファンの怒りは募っていくばかり。
一体セルタはどうなってしまうのか。
一切の団結感がないまま、モウリーニョ体制のセルタはセグンダAでの5年間を過ごすことになったのです。
「地獄」の5年間
セグンダAでの5年間は、過去10年間にセルタが経験したことのない壮絶な苦難の道でした。
欧州カップ戦に出場していた時期にはコンスタントに23,000〜24,000人程度の観客が訪れていたバライードスのスタンドからは日を追うごとに人が減り、僕が覚えている限りで記憶に残っている最小の観客数は1,800人。
ほぼ無観客試合に等しいような静寂の中で行われる試合を、セルタは必死に戦い、抗い、そして勝ち点を失っていきました。
選手の補強は遅々として進まず、一体いつになればプリメーラに戻れるチーム力を整えられるのかもはっきりしない。
それでも経営陣からは特に目新しいニュースは出てこない。
なんの情報もない中でファンが唯一期待を寄せたのがカンテラの若者たちでしたが、U-17スペイン代表に選出され将来が期待される存在になりつつあったデニス・スアレスはあっさりとマンチェスター・シティに放出。
「マジーニョの息子」としてセルタでのデビューを期待されていた当時のラフィーニャも結局バルサBとのプロ契約を締結してビーゴを去っていきます。
「カンテラを中心にしたトップチームの編成」を謳いながらも現実はそれと程遠い行為を繰り返す経営陣に対して、相当な数のファンがもはや諦めに近い感情を持つようになっていたのです。
1シーズンで2〜3人の監督交代を行い、それでも上向かない成績を辛抱強く待てるほどセルタのファンは成熟していませんでした。
若手の有望株は人知れず去っていき、将来の道筋も見えない。
スタジアムに通い、声援を送る意味を見失っていくファンが増加していくばかりなのも無理なからぬことでした。
パコ・エレーラとイアゴ・アスパス
2009−2010シーズンまで超低空飛行が続き、相変わらずモウリーニョへの風当たりが強かった中、新監督にパコ・エレーラを迎えていたセルタは1人の若者によって徐々に息を吹き返し始めます。
それがイアゴ・アスパスでした。
徐々にパコ・エレーラのもとで出場機会を増やし、2010−2011シーズン後半からレギュラーに定着したアスパスは2011−2012シーズンにセグンダAで23得点を記録。
カンテラからセルタBに昇格し、その「自前の選手」を重用して結果を出していくパコ・エレーラのセルタを見て徐々にファンはバライードスに戻ってきます。
最終的に2011−2012シーズンを2位で終えたセルタは久方ぶりにプリメーラに昇格。
チームをセグンダから救った英雄としてパコ・エレーラとアスパスの名前はファンの脳裏に深く刻まれることになったのです。
これはあくまでも僕の個人的な推測に過ぎませんが、おそらくモウリーニョとしてはこの瞬間を待っていたのではないかと僕は考えています。
「育成部門の選手を使いながら本人と選手を育てられる監督」
と
「育成期間中に他クラブから目を付けられずにいてもクラブに忠誠を尽くせる選手」
の双方がクラブに現れることを待っていたのではないか、と僕は思うのです。
こじつけかもしれませんが、その後のセルタからは現在もプレーするカンテラ出身の選手たちが次々とデビューし、実戦でリーグ戦を戦うようになりました。アスパスしかり、ウーゴ・マージョしかり、セルヒオ・アルバレスやルベン・ブランコしかり。
結果的にその後バレンシアへ去っていったサンティ・ミナもそうですが、2010年のアスパスデビューとプリメーラへの昇格を境にしてセルタのカンテラ出身選手たちは徐々に増加しています。
正直言うと、プロの選手や監督経験があるわけではないモウリーニョにこうなることを見越すサッカー的な先見の明があったとは僕には思えません。
「ガリシア人カンテラ主義」を掲げたその熱意は当初から本物だったのでしょうが、1人のトップレベルで通用するサッカー選手を育てるのはそんなに簡単なことではないはずです。
結果的にアスパスはセルタでデビューし、その前後でデニス・スアレスやラフィーニャといった有望な選手たちが移籍していく過程の中で、モウリーニョは「誰をどのようにいつ軸にしていくのか」について真剣に考えるようになったのかもしれません。
2019−2020シーズンがセルタの花笑みになるのか
モウリーニョの会長就任から10年後の2016−2017シーズン。
セルタは久々に前シーズンのリーグ戦を6位で終え、ヨーロッパリーグに出場。
2015−2016シーズンの最後、バライードスのスタンドには
「Grazas Presi=会長、ありがとう」
と書かれた巨大な横断幕が掲げられました。
おそらくはこの瞬間が本当の意味でモウリーニョがセルタのファンから完全に受け入れられた瞬間だったと言えるのではないでしょうか。
「Grazas」とはガリシア語で「ありがとう」を意味する言葉で、カステジャーノ(標準スペイン語)の「Gracias」に相当します。
「Presi」は「Presidente=会長」を簡略化し親しみを込めて呼びかける時にしばしば使われる言葉ですが、これまでセルタファンが公の場でモウリーニョに対しこのような呼びかけをすることはありませんでした。
正直に言うと、僕はこの時もまだモウリーニョに対して否定的で消極的な感情を捨てきれておらず、ヨーロッパリーグ出場を決めたエドゥアルド・ベリッソ監督の手腕こそ評価し喜んではいたものの、
「これで就任当初の不誠実な行動が正当化されるべきではない」
とさえ思っていたのが事実です。
しかし実績は実績であり、セルタはクラブとして徐々に立ち直り結果を出し始めていたのもまた事実でした。
選手監督のみで結果が残せるほどプロの世界は甘くないことは僕もよくわかっているつもりです。
会長に全く人望がなく、なんの実力もなければスタッフが優秀でもクラブとしての結果が出ないことはそれまで長い間ラ・リーガを見てきた中で実例は枚挙にいとまがありませんでした。
そこから僕はいったん冷静に振り返ってみようと思うようになり、モウリーニョ前後のセルタの状況を改めて調べ始め、今こうしてこのブログを書いているというわけです。
2019−2020シーズンに向けてセルタはデニス・スアレス、サンティ・ミナ、パペ・シェイク、そしてラフィーニャを次々と獲得し(レンタルは含まれますが)。
それぞれの選手たちが本当に嬉しそうに記者会見を受け言葉を語り、特にラフィーニャが会見で見せたにじみ出るような笑顔を見て、モウリーニョが彼らを全力で歓迎する様子を目の当たりにすると、モウリーニョが作りたかったセルタの形がようやくでき始めたのかなと僕は思っています。
この2019−2020シーズンがセルタにとっての常花たりうるのか、それとも一時の狂い咲きで終わってしまうのか。
スペインのメディアも僕たちセルタファンも、今シーズンのセルタを注視することになるのは間違いありません。