【体験記】バレンシアーノはカタルーニャの夜空に轟く(4)

La Liga情報

1999年2月27日 スペイン王国 カタルーニャ州 州都バルセローナ

リーガエスパニョーラ1998-1999シーズン
第24節
カンプ・ノウ
バルセローナ 2−4 バレンシア
30分:クライフェルト
79分:クライフェルト
得点者 4分:イリエ
37分:クラウディオ・ロペス
82分:アングーロ
87分:クラウディオ・ロペス
監督
ルイス・ファン・ハール クラウディオ・ラニエリ
背番号 先発選手 背番号 先発選手
13 へスプ 1 カニサーレス
12 セルジ 3 フアンフラン
5 アベラルド 5 デュキッチ
25 フランク・デ・ブール 15 カルボーニ
18 ロナルド・デ・ブール 12 ビョルクルンド
4 グァルディオーラ 16 ロシュ
6 オスカル 6 メンディエータ
15 コクー 8 ファリノス
21 ルイス・エンリケ 23 アングーロ
11 リヴァウド 7 クラウディオ・ロペス
19 クライフェルト 11 イリエ
交代
23 ゼンデン 18 ポペスク
8 セラーデス 25 ソリア
9 アンデルソン 10 シュヴァルツ

第1〜3話はこちら

【体験記】バレンシアーノはカタルーニャの夜空に轟く
現地観戦記第3弾「1999年バルサ対バレンシア」第1回をお届けします。初めてスペインに降り立ってから数週間。衝撃的なカウンターで世間を驚かせていたバレンシアを、僕は眼前で体験することになります。
【体験記】バレンシアーノはカタルーニャの夜空に轟く(2)
現地観戦記第3弾「1999年バルサ対バレンシア」第2回をお届けします。バルセローナ到着後にチケットを求めてカンプ・ノウに辿り着いた僕は、あるバレンシアファンと遭遇するのでした。
【体験記】バレンシアーノはカタルーニャの夜空に轟く(3)
現地観戦記第3弾「1999年バルサ対バレンシア」第3回。ランブラス通りで初めてカタルーニャ語に触れた僕は、いよいよ試合に向けてカンプ・ノウに向かいます。そこで僕は予期せぬ再会を果たし、そして時は動き出すのでした。

バルサ讃歌

Tot el camp(全てはピッチの上にある)

És un clam(それは叫びだ)
Som la gent blaugrana(我々がブラウ・グラーナであるということの)
Tant se val d’on venim(これほどの者たちはどこから来たのだろう)
Si del sud o del nord(あるものは南から、またあるものは北から)
Ara estem d’acord(我々は今まさに一つの共有意識に)
Estem d’acord(我々が共有意識になっている)
Una bandera ens agermana(我々を兄弟姉妹たらせるたった一つの旗のもとに)

Blaugrana al vent(ブラウ・グラーナが風に揺れる)
Un crit valent(それこそが勇敢なる叫びとなる)
Tenim un nom el sap tothom(今こそ叫ぼう、誰もが知る名前を)

Barça!

Barça!!

Baaaaaarça !!!!

恐らく世界中のサッカーファンでこの「バルサ讃歌」を聞いたことがない人はいないでしょう。

世界中のサッカークラブはたいていそれぞれのクラブを象徴する讃歌を持っていますが、僕がこれまで聞いてきた中で、セルタの讃歌と同等の格好良さを持っているのはバルサ讃歌が唯一です。とはいえ、セルタの讃歌に勝てるものなどこの宇宙には存在しないはずですが。

この前の週に生涯初のバライードス訪問を成し遂げ、セルタ讃歌を聞いたときには感動のあまり涙が出ましたが、1人のサッカーファンとしてバルサ讃歌は一度でいいからカンプ・ノウで聞きたいと思っていました。

僕がカンプ・ノウ初観戦をメインスタンドの選手入場口付近で実現することにこだわったのはここに理由があります。

テレビで何度も見た光景。

バルサの選手達がメインスタンド中央の入場口から勢いよく駆け出てきてセンターラインに並びながら、バルサ讃歌が雄々しく響き渡るなかで並び終わった選手達が顔を上げ、誇らしげな表情を見せると同時に響き渡る大音量の「バルサ三唱」。

こんな雰囲気で試合開始を待つ選手達の気持ちは一体どんなものなのだろうか、と僕はずっと想像を膨らませてきました。

もちろん僕はサッカー選手になどなれませんし、ピッチでその雰囲気を体感することは生まれ変わりでもしない限りありえないでしょう。

しかし、どうにかしてあの雰囲気の中に入り込んでみたい。どんな雰囲気なのかを体感してみたい。

スペイン語を勉強し始める前から僕はずっとそんな願いを持っていました。

Barça!

Barça!!

Baaaaaarça !!!!

前半部分最後に流れるこの「バルサ三唱」を聞いた瞬間、僕は全身にこれまで味わったことのないレベルでものすごい鳥肌が立つのを感じました。

体中の毛穴がぱっくりと開き、その開いた毛穴から体中に流れ込む9万人以上の人間の声、叫び、雄叫び。

知識としては知っていたカタルーニャの歴史や、スペイン内戦時の壮絶な市街戦の記憶。

ジョージ・オーウェルが著書「カタロニア讃歌」で描いた、悲劇的な中にもユーモアと勇気を失わずに不屈の精神を心に宿すカタルーニャ人達が、40年に渡る独裁政治と文化弾圧に耐える中で生み出したカンプ・ノウで歌われるこのバルサ讃歌は、彼らにとってバルサのみならず彼ら自身をも鼓舞し、誇り、自らのアイデンティティーを内外に示すまさに象徴たるものなのだろうということが、この「バルサ三唱」に全て集約されているのではないのかと思える叫びです。

僕は特に主義者というわけではありませんが、それでもこの讃歌が単にFCバルセローナという一つのサッカークラブだけではないものをも讃えているように聞こえました。

2回目のバルサ三唱が終わり、9万人を超える観衆がそれぞれの席に腰を落ち着け始めても、僕はあまりの衝撃の強さに身動きすることができませんでした。

我に返ったのは後ろのバレンシアファン5人組と、隣の席で孫を連れた男性に「終わったぞw」と声をかけられてからのことでした。

バレンシアファン5人組を振り返ると、彼らは「まあ仕方なかろう」という顔で呆れたように僕に笑いかけ、隣の男性を見ると「どうだ、すごいだろう」とでも言いたげな満足そうに見える笑顔を浮かべて彼は僕を見ていました。

別の生き物でも見るような目で僕を見つめる彼の孫と目があい、僕は思わず「すごいね」と声をかけると、その子はニッコリと笑って「バルサが勝つからだよ!」と答えてくれたのです。

ただし、その子にはとても残念なことに、その日そうはなりませんでした。

La tormenta naranja

「オレンジの嵐」

「メンディエタッソ」

この1998−1999シーズン、イタリア人指揮官クラウディオ・ラニエリはバレンシアを超高速のインテリジェントなカウンターを繰り出すチームに変貌させ、数々のチームがその牙の前に成すすべもなくひれ伏していました。

ジョスリン・アングロマ、アメデオ・カルボーニ、ミロスラフ・デュキッチというベテラン勢で固められた最終ラインが確実に相手の攻撃を跳ね返し、フランシスコ・ファリノスが拾ったボールをガイスカ・メンディエータにつなぎ、同時にトップスピードでスプリントを始めたクラウディオ・”ピオホ”・ロペスにピンポイントで正確なロングパスが供給される。

愚直なまでに繰り返されつつも計算された緻密な動きで繰り出される3タッチ以内での高速カウンターは、他の追随を許しませんでした。

1997−1998シーズンから2シーズンに渡りバレンシアの指揮をとったラニエリは結局76試合で35勝26分15敗。勝率にすると46.05%という成績を残してバレンシアを去り、1999−2000シーズンからアトレティコ・マドリーを率いることになるのですが、数字以上に試合内容とその芸術的に効率的なカウンターが印象に残るものだったことは間違いありません。

成すすべもなくメンディエータからのパスを受けて走り去っていくピオホ・ロペスを相手DFは見送ることしかできず、ファウル覚悟でピオホを潰しても顔色一つ変えずに前線まで追いついているメンディエータが正確なボールコントロールで再度展開を始めるか、「メンディエタッソ」という造語まで生みだした強烈なミドルシュートが飛んでくる。

ハマってしまうと嵐のようにカウンターが吹き荒れ、終わったときには2点3点を奪ってしまうバレンシアの攻撃を、この時期スペインの各新聞は「La tormenta naranja=オレンジの嵐」と呼んで称賛していました。

そしてその嵐は、この夜カンプ・ノウにも吹き荒れることになったのです。

サンティアゴ・カニサーレスから始まったリスタートのボールがセンターサークル付近でルーマニア代表FWアドリアン・イリエに収まると思われた瞬間、イリエはあっさりとダイレクトで右サイドを駆け上がるガイスカ・メンディエータへはたくとそのまま反転してペナルティエリアへ突進。一瞬ストップをかけたところへメンディエータが戻し、イリエのチェックへ向かったロナルド・デ・ブールを手で抑えながら体勢を立て直したイリエには、右サイドからペナルティエリアでフリーになろうとしていたメンディエータを自分の正面にいたフランク・デ・ブールが気にするのが見えたのでしょう。

躊躇せずに振り抜かれた右足から放たれたボールがルート・ヘスプの守るバルサゴールに突き刺さり、試合開始わずか4分であっさりとバレンシアが先制に成功しました。

大騒ぎを始めたのは後ろの5人組です。

「イリエ」とか「メンディエータ」とか人の名前と一緒に何ごとかを大声で叫んでいるのですが、その他のことは何を言っているのか僕にはさっぱり聞き取れません。恐らくはカタルーニャ語・・・ではなく、バレンシアーノ(バレンシア語)で叫んでいたのでしょう。

あまりにも狂喜乱舞するその姿に、僕は別の種類の心配をしながら大丈夫なのかとヒヤヒヤしていたのですが、もちろん彼らはそんなことお構いなしです。

ある意味で誤解を恐れずに言えば。

日本の海外サッカーファンの多くはただの耳年増に過ぎません。

例えば「アウェーは危ない」とか、「贔屓チームのアウェー戦では贔屓チームを応援したら何をされるかわからない」とか、「アウェーのスタジアムで贔屓チームのユニフォームを着るのは厳禁」とかそういう類の話は日本の海外サッカーファンの中では半ば常識化されており、そしてそれは「数ある多くの真実のうちの一つ」であることは間違いないのですが、現実的に僕の後ろにいるバレンシアファン5人組はそんな当時の僕にとっても常識だった知識を根底から覆す有様を見せていました。

恐らくバレンシアからわざわざ来たのであろう彼らはアウェーであるカンプ・ノウで堂々とバレンシアのユニフォームを着込み、バレンシアの州旗をこれ見よがしに身にまとい、あまつさえバレンシアのゴールに飛び跳ねながら絶叫し狂喜乱舞しながら、バレンシア語で叫び続けているのです。

しかも驚くべきことに、周囲のバルサファン達は冷ややかな目ではありつつも、「はしゃいじゃって、こいつらw」とでも言うような生暖かい視線を向けるのみで、翌年の11月に僕がリアソールで経験するような暴力的な振る舞いをすることもなく、はしゃぎ続けるバレンシアファン5人組を放置しているのでした。

後からわかったことですが、これは僕たちのいる場所がメインスタンドだったことが大きく影響しています。

スペインのほぼどこのスタジアムでも言えることですし、日本でも同じですがスタジアムの場所によってチケットの価格は大きく異なります。

ゴール裏席が一番安く、次いでバックスタンド、そしてメインスタンドの順に価格は高くなっていき、スタジアムによっては2階席且つサイドライン側のほうが価格が高いこともあります。これは2階席のほうが試合の流れがよく見えることが理由で、例えばセルタのホームスタジアムであるバライードスではメインスタンド2階のトリブーナ・アルタの年間チケットに最も高い値段が設定されています。

僕がこの日観戦していたカンプ・ノウの席はメインスタンド2階の中央寄り。

更に中央側へ行けば「パルコ」と呼ばれる貴賓席や、記者席などが設けられている一角でした。

つまり、この場所で観戦している人はそれなりに収入レベルが高く社会的なステータスも比例して高めの人達である可能性があるわけです。

深層心理の中に、太古から続く階級社会の精神性とそれに基づくプライドを根強く残していると僕が感じるスペイン人達のこと。カンプ・ノウのメインスタンドという「ハイソサエティーな場所」にいながら、暴力的で下品な振る舞いをするなどということは自らの恥をさらす行為にもなりなかねません。

つまるところ、「場所さえ選んで気をつけ、常識から外れた行為さえしなければ」アウェーだからといって特に過剰な警戒や心配は「さほど必要ないこともある」というのが、少なくともスペインにおけるサッカー観戦の一つの真実であることを僕は知ることになります。

バレンシアファンの彼ら5人が敵地にいながら大喜びしても特に危険なこともなく大騒ぎができるのは、上記のようなことが理由にあるのだろうということを僕が理解するのはもう少し先のことでしたが、とにかく試合はバレンシアのゴールで幕を開け、そしてそのまま進んでいったのでした。

ティント・デ・ベラーノかカリモーチョのような何か

30分にクライフェルトがものすごくハンド臭いトラップから抜群のボディバランスを活かして叩き込んだ同点ゴールでカンプ・ノウの溜飲を下げさせた7分後、自陣からのFKの際にバルサの中盤と最終ライン陣形が整っていないことに気づいたメンディエータは若干山なりながらも正確なボールをゴール前に送り込み、競り合ったピオホが落としたボールを右サイドからダイレクトでアングーロが再びピオホに預けます。

アングローロはものすごい勢いでそのまま縦に抜けましたが、ピオホはそんなことにはお構いなく前を向き、1タッチするとそのまま左足を振り抜きました。

ペナルティエリアの少し前から放たれたボールは何も語ることなく無言でバルサのゴールネットを揺らし、背後からはまたしても「ピオホオオオオオオオオ!!!!」という5人組の絶叫が響きます。

興奮すると自然とバレンシア語が出てくるのか、相変わらず何を言っているのかさっぱりわからない言葉でひたすらに叫び続けている5人組でしたが、かろうじて有名な「Amunt, Valencia!!」というフレーズと、「Valencia, campeon!!」という絶叫だけはやけに耳に残りました。

前半は結局このまま1−2でバレンシアがリードしたまま終わり、ハーフタイム中にトイレに行くついでに売店でコーラを買って席に戻ると、5人組が楽しそうにカンプ・ノウのピッチを背景に記念撮影をしているところでした。

僕の席は通路側だったので、邪魔にならないように撮影が終わるまで通路で待ちながらカンプ・ノウのピッチを眺めていると、5人組の1人が僕の肩を叩き「お前も入れ」と言ってきました。

意味がわかりませんでした。

言葉もあまり通じないうえに、大した会話もしていないどこの馬の骨ともわからない東洋人をいきなり写真撮影に誘ってくるなど想像だにしていなかった僕は、言われた意味がよくわからず呆けたまま立ち尽くしていたのですが、何かを察したのか5人組の中で最もヒゲモジャだった1人がワイン袋を掲げて、「こいつを飲んだらみんなアミーゴだ」とヘラヘラ笑いながら僕を無理やり引っ張りました。

結局僕はワイン袋片手にポーズを取らされ、挙句の果てに5人組はバルサのユニフォームにバルサのマフラー、バルサのキャップという絵に書いたようなバルサファンの少年に「全員映るように撮れ」と無茶な命令を下し、かわいそうな少年は苦笑いしながらバレンシアファンと日本人の不思議な6人組の写真を撮影するハメになったのでした。

一緒に写真を撮ったことを気に入ったのか、5人組はしきりに僕を呼んでワイン袋をすすめてきたのですが、僕はコーラを買ったばかりです。「これがあるから」と最初は断ろうとしていたのですが、そのうちにヒゲモジャが「じゃあこうすればいい」と僕の手からコーラをひったくり、ワイン袋にワインを詰めるための小さな漏斗を取り出しました。

いったいどこまで用意が良いのかと半ば呆れてみていると、ヒゲモジャの隣に座っていたガリガリの1人が自分のバッグから、ちょうど牛乳のパックみたいなものを取り出します。

僕は思わず目を疑いました。

スペインはフランスやイタリアと並んでワインの産地としても有名で、特に乾いた気候のカスティージャ・イ・レオンではバジャドリー周辺で生産されるリベラ・デル・ドゥエロというブランドとラ・リオハのリオハワインがその名を知られています。

それ以外にも安ワインがやまほどあり、安ワインでもそこそこ飲める美味しいものがあるのですが、その安ワインの一つが紙パックに入った状態でスーパーなどで売られている「Don Simon(ドン・シモン)」というワインでした。

ガリガリくんがバッグから取り出したのはまさにそのDon Simonの紙パックワインで、「あ!」と僕が声を上げるよりも早くヒゲモジャがワイン袋にセットした漏斗に勢いよくDon Simonの紙パックからドボドボとワインを注ぎ込み始めます。

いつまでたってもワインが切れないのはなぜなのかと僕が抱いていた謎はここで解けたのですが、そうなるともう一つの謎が残ります。

なぜヒゲモジャは僕からコーラを奪い取ったのか?

ガリガリくんがワイン袋にDon Simonを注ぎ終わると、今度はヒゲモジャが僕から奪取したコーラをそこへ全て注ぎ込みました。何ということをするのだろうと思ってみていると、ガリガリくんは何をしているのか理解できていない僕に軽くウインクをしながら、「夏には早いが、これで完璧だ」みたいなことをニヤニヤしながら言ってきます。

どうやら5人組は赤ワインと炭酸水を混ぜた飲み物「ティント・デ・ベラーノ」を作ったと言いたいらしいのですが、はたしてそれはコーラで代用するものなのかどうかを僕は知りません。

むしろ赤ワインとコーラを混ぜたものはスペインでよく飲まれる「カリモーチョ」というカクテルです。ラムをコーラで割るラムコークよりもあっさりしていて飲みやすいのでいいのですが、まさかカンプ・ノウのど真ん中でカクテルを作り始める連中が存在するとは思ってもみませんでした。

僕のコーラを全てワイン袋に注ぎ込み、紙コップに残った氷を無造作にバチャバチャと足元に捨てると、ヒゲモジャは「さあ飲め」と再び僕にワイン袋を差し出しました。

念の為に言っておきますが、ここまでにもう何度もワイン袋の洗礼を浴びているおかげで僕はなかなかいい感じに酔っ払い始めていて、当然それは5人組も一緒です。

しかしもはや断ることができる雰囲気など微塵も感じられなかったため、僕は仕方なく改めてワイン袋から自分の口に出来上がったばかりのティント・デ・ベラーノなのかカリモーチョなのかよくわからない飲み物を注ぎ込みました。

冬の寒さでよく冷やされたコーラと常温で保管されていた安っぽいDon Simonワインの味がよく絡み、その飲み物は想像以上に旨いということがわかってしまったのが運の尽き。「どうだ」と聞いてくるガリガリくんに思わず「うまい」と言ってしまうと、5人組は大喜びで自分達もワイン袋から自作のカクテルをがぶ飲みし始めました。

サッカー観戦に来たのか宴会に来たのかさっぱりわからない展開に僕は困惑しながら、視界の端に選手が入ってくる姿を捉えたため、「後半が始まるよ」と5人組に声をかけます。

完全にできあがった感じの5人組は雄叫びを上げながら立ち上がり、ワイン袋を振り回しながらバレンシア語で何かを叫んでいました。

バレンシアーノはカタルーニャの夜空に轟く

後半開始からしばらくは、どちらにとっても大して面白みに欠ける試合展開が続いていたのですが79分に再びクライフェルトが同点ゴールを叩き込んだ瞬間、カンプ・ノウに詰めかけた9万人の口からとんでもない圧力で大音量の歓声が響きました。

よくマンガであまりの声量にビリビリと震えるような描写がありますが、あれは本当です。

体中に見えない何かが叩きつけられるような感覚とともに声の波と壁がいっぺんに体を押しつぶそうとしてくるような感じ、とでも言えばいいのでしょうか。

とにかくこの試合だけではなくこの1週間半に渡って散々苦しめられてきたバレンシア相手にようやく同点に追いついたバルサファン達9万人は一斉に立ち上がって拳を振りかざし、僕には聞き取れない言葉であれやこれやを叫び続けていました。恐らくカタルーニャ語だったのでしょう。

ようやくスタジアム全体のボルテージがバルサの同点ゴールによって高まり、雰囲気も最高潮という状態になってきたところで、9万人のカタルーニャ人達の気分をまたしても台無しにする出来事が起こります。

疲れの見え始めたクライフェルトと交代させるつもりだったのであろうソニー・アンデルソンがこれからピッチにはいる準備をしようとしていた瞬間、最終ラインでボールを拾ったロシュが右サイドのポペスクへロングボールを送りました。

センターサークルのバルササイド寄りでボールを受けたポペスクは軽くトラップするとそのまま右足で前線に山なりのパスを送ります。

ポペスクがボールを触るか触らないかのうちに全力疾走を始めていたピオホ・ロペスはあっという間に競り合っていたフランク・デ・ブールから半身以上早く抜け出すと、慌てて飛び出してきたルート・へスプをあざ笑うかのように左足で軽くボールを浮かせてかわし、そのままゴールへ突進します。

なんとか背後から追いすがったフランク・デ・ブールが左足を伸ばし、同時にピオホも左足を伸ばしたどちらかがボールに触り、そのボールはかろうじてクロスバーに当たって跳ね返ったのですが、そこにいたのがミゲル・アンヘル・アングーロでした。

軽々と頭でボールを押し込んだアングーロは「やってやったぜ」とばかりに大喜び。

これから逆転で気持ちよく週末を過ごしたいと願っていたカンプ・ノウの9万人は、何度となく押し寄せては自宅の壁を破壊していくオレンジ色の(実際には白いユニフォームだったのですが)嵐にうんざりした様子でしょげかえってしまいました。

2018年ワールドカップの決勝トーナメント1回戦でベルギーに追いつかれた際に日本中が感じたことだと思いますが、追いつかれる展開というのは本当に嫌なものです。通常であれば追いついたほうがどちらかと言えば勢いに乗っているので展開としては良いはずなのですが、どうやらこのシーズンのバレンシアにはそんなセオリーや常識は全く通じないようだということがその5分後に明らかになります。

87分。センターラインでシュヴァルツとグァルディオーラ競り合い、こぼれたボールを拾ったメンディエータが左サイド寄りのアングーロにグラウンダーのパス。アングーロがボールに触るよりも早く走り出してセルジ・バルジュアンを完全に置き去りにしようとしていたピオホは、アングーロがダイレクトヒールで前に送ったボールにやすやすと追いつき、左足で冷静にボールを流し込みバレンシアに4点目をもたらしました。

この瞬間、僕の隣に座っていた孫を連れていた例の男性は「ばかもんが!」と一言つぶやくと孫の手を引いて席を立ち、5人組を振り返ると「もうお前らとは試合したくない!」と苦笑いしながら立ち去っていきます。

しかしもはや5人組にそんな言葉は聞こえていません。

ただひたすらに「バレンシア!バレンシア!バレンシア!」と絶叫を続けるのみ。

他のバルサファン達も続々と席を立ち、通路はあっという間にカンプ・ノウを後にする観客たちでごった返すようになりました。

スペインではよく見られる光景ですが、試合終了間際にダメ押しのゴールを決められたり、これ以上やっても勝ち目はないと判断するとファンはさっさと見切りを付けて帰ってしまうことが往々にしてあります。

ひょっとすると敗戦の瞬間を見たくないという心理もあるのかもしれませんし、カンプ・ノウの場合は9万人が一斉に帰るわけですから地下鉄が混むのを避ける意図もあるのかも知れません。

結局試合はそのまま終わり、試合が終わった頃には僕の周りにバルサファンはほとんど残っておらず、後ろからは相変わらずバレンシア語で勝利の雄叫びを上げる5人組の絶叫が響き渡っていました。

「おめでとう」とでも声をかけようと僕が5人組を振り返ると、Don Simonの安い赤ワインとお手製のカリモーチョもどきですっかり真っ赤に出来上がった5人組は顔をクシャクシャにして弾けんばかりの笑顔を浮かべており、5人で肩を組みながらバレンシア語で何かを歌っています。

あまりに嬉しそうなその様子を見て思わず僕も笑顔になってしまい、準決勝進出が決まっているコパ・デル・レイに向けて「コパで優勝できるといいね」と声をかけると、ヒゲモジャとガリガリくんが「当たり前だ!」と叫びカステジャーノでこう続けました。

「これからがバレンシアの時代だ!俺たちはチャンピオンになる!チャンピオンになって、ヨーロッパも俺たちのもんだ!」

最終的にこのシーズン、セビージャのラ・カルトゥーハで行われたコパ・デル・レイ決勝でバレンシアはアトレティコ・マドリーを3−0で下して王者になり、続く1999−2000シーズンのチャンピオンズリーグではアルゼンチン人監督エクトル・クーペルに率いられ、決勝に進むことになります。

その後バレンシアはクーペル、ラファエル・ベニエスの時代にスーペル・コパ・デ・エスパーニャ優勝1回、リーガ・エスパニョーラ優勝2回、UEFAカップ優勝1回という黄金時代とも呼べる栄光を勝ち取っていくことになるのですが、まだこの時はスペインの誰もそんな時代が来ることを知りませんでした。

同様にこの後訪れるバレンシアの栄光など知る由もない僕は、立ち去り際に5人組に向かって「Amunt, Valencia!」と覚えたてのたった一つのバレンシアーノで声をかけました。

それに反応した5人組は今でも覚えている印象的な笑顔でサムズアップをしながら、僕に向かって「バレンシアーノ!バレンシアーノ!」と叫び返し、その後も何ごとか叫んでいたのですが当然彼らのバレンシアーノが何を意味するフレーズなのか僕には到底想像することもできません。

通用口へ向かいながらカンプ・ノウのピッチを見下ろすと、スタジアムのスタッフが備品を片付けながら試合の後処理をしています。グァルディオーラがインタビューに答えているようでしたがもちろん2階席からでは何を言っているのか聞き取ることは不可能でした。

バックスタンドからは完全に人が消え、「Mes que un Club」という文字が再び姿を見せており、バックスタンドの向こう側には雲ひとつ無い真っ黒な夜空にグッドイヤーのスポンサー広告を付けた飛行船が飛び去ろうとし、煌々と光る月はまだ天高く、そして僕の背後からはカタルーニャの夜空に向けて轟くバレンシアーノがいつまでも響いていたのでした。

おわり

第1〜3話はこちら

【体験記】バレンシアーノはカタルーニャの夜空に轟く
現地観戦記第3弾「1999年バルサ対バレンシア」第1回をお届けします。初めてスペインに降り立ってから数週間。衝撃的なカウンターで世間を驚かせていたバレンシアを、僕は眼前で体験することになります。
【体験記】バレンシアーノはカタルーニャの夜空に轟く(2)
現地観戦記第3弾「1999年バルサ対バレンシア」第2回をお届けします。バルセローナ到着後にチケットを求めてカンプ・ノウに辿り着いた僕は、あるバレンシアファンと遭遇するのでした。
【体験記】バレンシアーノはカタルーニャの夜空に轟く(3)
現地観戦記第3弾「1999年バルサ対バレンシア」第3回。ランブラス通りで初めてカタルーニャ語に触れた僕は、いよいよ試合に向けてカンプ・ノウに向かいます。そこで僕は予期せぬ再会を果たし、そして時は動き出すのでした。
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