元スペイン代表&元マドリー監督のロペテギ、セビージャ監督に?
元スペイン代表監督、元レアル・マドリー監督のユレン・ロペテギがセビージャの監督に就任する可能性があるとスペイン最大手のスポーツ紙MARCAが報じています。
2018年FIFAワールドカップ・ロシア大会の開幕直前で当時指揮をとっていたスペイン代表監督を解任されたロペテギ。
ワールドカップ開幕直前に大会終了後のレアル・マドリー監督就任を突然発表し、そして突然スペイン代表を解任され、さらにわずか2ヶ月ちょっとでレアル・マドリーの監督をも解任されるという慌ただしい1年を送っていました。
セビージャはラ・リーガ2018−2019シーズン終了間際に、イタリアのローマからかつてスポーツディレクターとして辣腕を振るったモンチが復帰。
入れ替わりにそれまでスポーツディレクターを務めていたホアキン・カパロスが監督に就任し、最終的に6位でシーズンを終え来シーズンのヨーロッパリーグ出場を決めています。
ヨーロッパリーグを戦う上でチームと戦力の向上が不可欠であるセビージャ。MARCAの取材に対してモンチは
「ボールを失っても可能な限り早くボールを再び奪う」
ことができるチームであることが重要と語っており、なおかつ
「移籍市場が閉まるよりも早くにチームを完全な形にしておくこと」
を目指すとコメントしています。
ロペテギがセビージャにとっての第一候補なのかどうかは今のところ明確にはなっていませんが、ホアキン・カパロスという経験と実績のある監督が去った今、セビージャには同様の経歴を持った監督が必要とされるだろうことは間違いありません。
ユレン・ロペテギの経歴
ここでロペテギの経歴を振り返ってみましょう。
1966年8月28日生まれのロペテギはレアル・ソシエダの下部組織でサッカー選手としてのキャリアをスタート。
しかし当時のレアル・ソシエダにはスペイン代表GKルイス・ミゲル・アルコナーダ、ホセ・ルイス・ゴンサーレス・バスケス、アグスティン・エルドゥアージェンなどがプレーしていたためトップチームでの出場は叶いませんでした。
1985年。ロペテギは19歳でレアル・マドリー・カスティージャ(レアル・マドリーBチーム)に移籍。1988年までレアル・マドリー・カスティージャでプレーした後、ラス・パルマスへレンタル移籍。
1年でレアル・マドリーに復帰しトップチームへ登録されますが、当時のレアル・マドリーにはスペイン代表GKフランシスコ・ブージョが君臨しており全く出番が与えられないまま2シーズンを過ごします。
2年間で唯一出場したのが1989−1990シーズン優勝決定後、第37節でのアトレティコ・マドリー戦でした(結果はアウェーのビセンテ・カルデロンで3−3の引き分け)。
1991−1992シーズンにログロニェスへ移籍したロペテギはようやくレギュラーGKとしてプリメーラ・ディビシオンでプレーする機会を与えられ、最終的に1994年までログロニェスで108試合に出場。失点もスーパーセーブも多いGKとして当時のリーガ・エスパニョーラ(まだ”ラ・リーガ”というブランド名はありませんでした)で最も「スペクタクルな」GKと呼ばれるようになります。
その活躍(?)あってか、1994年3月に行われたクロアチアとの親善試合で、同じバスク出身であるハビエル・クレメンテが率いていたスペイン代表へ初招集され、後半に交代出場。ログロニェス所属の選手としては始めてスペイン代表に選出・プレーした選手となります。
1994年FIFAワールドカップ・アメリカ大会のスペイン代表にも選ばれていたロペテギですが、当時のスペイン代表正GKはアンドニ・スビサレータ。バルセローナでも正GKとして君臨していたスビサレータの牙城を崩すことは叶わず、ワールドカップでのプレーは未経験のまま代表から遠ざかることになりました。
1994−1995シーズン開幕前にスビサレータがバルサからバレンシアへ移籍すると、バルサはロペテギをログロニェスから獲得。1994−1995シーズンのスーペル・コパ・デ・エスパーニャのサラゴサ戦でロペテギはバルサのGKとしてデビューしますが、当時3−4−3のフォーメーションを取っていたバルサのディフェンス陣と連携が取れず苦しみます。全く同じパターンで3点を決められた挙げ句、試合終盤にはほぼ正面から放たれたFKをファンブルして4点目を献上してしまいます。
このFK時のミスは当時大きく取り沙汰され、
「Espectacular fallo de Lopetegui=ロペテギのスペクタクルなミス」
「El show de Lopetegui=ロペテギ・ショー」
などと揶揄されることになってしまいました。
この時バルサの指揮官だった故ヨハン・クライフは「泥臭く勝つよりも美しく負けるほうがいい」という意味の名言を残したことで有名ですが、どうやらロペテギのミスは許せなかったようで、結局以前からスビサレータの控えとして所属していたカルレス・ブスケッツ(現在バルサ所属のセルジオ・ブスケッツの父親)にポジションを奪われ、やっと辿り着いたビッグクラブでのプレー機会をロペテギは失ってしまうことになりました。
最終的に3年間所属したバルサでロペテギがプレーしたのはわずか5試合。1996−1997シーズンにポルトガル代表GKヴィトール・バイーアが加入するとあっという間にポジションを奪われ、1997−1998シーズンに当時セグンダ・ディビシオンAでプレーしていたラージョ・バジェカーノへ移籍します。
ラージョ・バジェカーノではバルサ時代よりも出場機会を得ることができ、1998−1999シーズンはセグンダAで5位となりプリメーラ昇格に貢献。しかしアメリカ代表GKケイシー・ケラーやイマノル・エチェベリーアなどのローテーションをこなすこととなり、結局ロペテギは絶対的な正GKとしての地位を掴むこと無く2002年に現役を引退しました。
現役を引退したロペテギは2003年にセグンダAへ降格していたラージョ・バジェカーノの監督に就任。しかし成績不振のためわずか10試合で解任。結果的にラージョはこのシーズンでセグンダ・ディビシオンB(実質3部リーグ相当)へ降格することになってしまいました。
しかし2008年に古巣であるレアル・マドリー・カスティージャの監督へ就任すると2年後の2010年にはスペインU-19代表監督へ就任。2011年のU-19ヨーロッパ選手権で優勝。この時ロペテギが率いたチームで6ゴールを挙げ得点王に輝いたのが現アトレティコ・マドリーのスペイン代表FWアルバロ・モラータです。
2012年のロンドン・オリンピックではスペインU-23代表を率いていたロペテギ。オーバーエイジでフアン・マタなどを要したスペインにU-23日本代表が勝利したのを記憶している方も多いでしょう。
ちなみにこの時のU-23スペイン代表にはGKにダビ・デ・ヘア、DFにセサル・アスピリクエタ、ジョルディ・アルバ。MFにはコケ、イスコ、アンデル・エレーラ。FWにはロドリゴ・モレーノにクリスティアン・テージョと実力者が綺羅星のごとく揃っていたのですが、結果はグループリーグ敗退に終わっています。
ロンドン・オリンピック終了後も2014年5月までRFEF=王立スペインサッカー連盟のテクニカルスタッフとして働いたロペテギは2014−2015シーズンにポルトガルのFCポルト監督に就任。そのシーズンのチャンピオンズリーグでは準々決勝まで進出し、ジュセップ・グァルディオーラが率いていたドイツのバイエルン・ミュンヘンと対戦。ホームでは3−1と勝利を収めたものの、アウェーのアリアンツ・アレーナで1−6と大敗を喫し、敗退しています。
ロペテギ率いるポルトは2014−2015シーズンをコロンビア代表FWジャクソン・マルティネスなどを要しリーグ戦2位で終えますが、2016年1月にチャンピオンズリーグのグループリーグ敗退などの結果を受けて解任。
その後2016年7月に退任したビセンテ・デル・ボスケの後任としてスペイン代表監督に就任。2018年に向けたワールドカップ予選ではほぼ無風状態で本大会出場を決める好成績を残し、本大会に向けた期待が高まっていたところにレアル・マドリー監督就任が発表されます。
これは「ワールドカップ終了まで」という王立スペインサッカー連盟との契約期間中であるにも関わらず、レアル・マドリーが公式に「2018−2019シーズンの監督としてユレン・ロペテギと契約した」と発表してしまったことで「二重契約にあたる」とされたことが問題でした。
この出来事はスペイン国内で大議論となり、
「レアル・マドリーはなぜ発表をワールドカップ終了まで待てなかったのか」
「ロペテギもなぜ”ワールドカップが終わるまで待って欲しい”と毅然とした態度を取れなかったのか」
とレアル・マドリー、ロペテギ双方に批判が集まりました。
王立スペインサッカー連盟に対しても
「チームが出来上がりつつあり調子も上が、り結果を残しているロペテギを敢えて開幕前日に解任する必要があったのか」
と批判が上がりましたが、連盟としてはここで黙って認めてしまってはメンツが立ちませんし、スペインサッカー全体を統括する立場にある最高機関が数あるクラブの1つでしかないレアル・マドリー、強いて言えばフロレンティーノ・ペレス会長個人の強引な行動に引き下がったことになってしまいます。
2014年ワールドカップで無残な結果に終わった後、再びワールドカップで雪辱を果たすために苦労して築き上げてきた計画が実現できなくなったとしても、連盟としての威権を失うわけにはいかないという苦渋の決断だったことは想像に難くありません。
ロペテギはなぜ自身の評判を落とすような決断をしてしまったのか?
経歴を見てもわかるように、ロペテギ本人は現役時代に不遇の時代を過ごしています。現役引退後すぐに監督としてデビューしていることを見れば、現役時代から選手としての自分にさほどの価値がないことを受け入れた上で指導者ライセンスの取得に動いていたことは明白です。
監督としても解任を数回経験し、それでも年代別代表を率いて結果を出し続けようやく辿り着いたA代表の監督の座。選手としてピッチに立つことが叶わなかったワールドカップの舞台に代表監督として堂々と立つことができるまたとないチャンスを、なぜ手放すような行動を取ってしまったのでしょうか。
これはあくまでも僕の個人的な憶測と想像の域を出ませんが、おそらくロペテギには相当強いコンプレックスがあったのだろうと思います。
ロペテギはバスク人です。バスク人にとってアトレティック・ビルバオとレアル・ソシエダはバスクサッカーの最高峰。スペイン代表選手も歴代に渡り多数排出しているスペインサッカー界の名門です。GKというポジションだけに絞って見てみても、80年代のルイス・ミゲル・アルコナーダから90年代のアンドニ・スビサレータと連続してバスク人が正GKを務めています。
アルコナーダと同時期に同じレアル・ソシエダに在籍したにも関わらずそのあとを継げずレアル・マドリーでもブージョに道を阻まれ、ログロニェスで奮起し代表に選ばれるも今度はアトレティック出身のスビサレータの牙城を崩せなかったロペテギ。
バルサではデビュー時に致命的なミスを犯し面白おかしく揶揄され、最終的にキャリアで最もプレーできたのがセグンダAでのラージョ・バジェカーノです。所属クラブなどの経歴では名門に所属していたロペテギですが、同時期に所属したチームメイトや試合結果などことごとく運に恵まれなかった選手キャリアだったとも言えます。
指導者としてのキャリアを積み上げ最高潮へ達しようとしていたその時に、かつて欲した立場に近いものである、
スペイン代表監督としてのワールドカップ出場
レアル・マドリー監督としての華やかな立場
この2つが目の前に同時に現れた時、ロペテギの心中が激しく揺れ動いたであろうことは想像できます。
そうだとしたら、それこそがプロ意識と敬意の欠如ではないか。
そんな意見があるだろうこともよくわかるのですが、辛酸をなめ続けた人間にとっては実に困難な決断を迫られる場面だったのではないでしょうか。
バスク人には誇り高く、同時に頑固でプライドの高い性格の人物が多いと言われています。そして往々にしてそういった性格の人物は挫折を経験するとコンプレックスが強まる傾向が高いとも言われます。
もちろんだからといってロペテギの決断は決して褒められたものではありません。もし仮にスペイン代表を率いる決断をすることでレアル・マドリー監督就任のチャンスを失ったとしても、恐らくまた別の機会が巡ってきたはずです。後ろ指さされること無く、アトレティックやレアル・ソシエダの監督として称賛される立場にもなれた可能性もあります。
全てを失ったわけではないにせよ、2018年6月にロペテギが下した決断は、彼から多くのチャンスを奪ったことは事実でしょう。
だからこそ僕はセビージャが本当にロペテギをホアキン・カパロスの後任として考えているのかどうかについて疑問を持っています。果たして信義と仁義を重んじる性格だと言われるモンチが、ロペテギの2018年を見ていながら彼をセビージャの監督に招く決断をするのかどうか。
仮に「セビージャ監督ユレン・ロペテギ」が実現したとしたら、ロペテギはこの1年の汚名を晴らすことができるのかどうか。
疑問を抱きつつも、僕はロペテギを取り巻く状況がどうなっていくのかが気になって仕方ありません。