空気と風景
第1話はこちら
第2話はこちら
第3話はこちら
第4話はこちら
第5話はこちら
アルゼンチンサッカーのテレビ中継と聞いて、皆さんはどんな光景をイメージするでしょうか?
特徴的な光景としては舞い散る紙吹雪や、スタンドに張り巡らされたチームカラーの襷、リズムよく行われるパス交換に合わせた、同じくリズミカルな実況中継などが多いかもしれません。
僕がアルゼンチンリーグの中継を初めてきちんと見たのは1998年のことでした。
当時のスカパーでスポーツ専門チャンネルを見ることができるようになり、そこで放送されていたコンテンツの一つにアルゼンチンリーグの中継がありました。
すでにその時点で僕はスペイン語の専攻学生として勉強を始めていたため、ヒアリングの練習と趣味も兼ねてアルゼンチンリーグの中継を副音声のスペイン語で見るようにしたのです。
ちなみに、スペインのリーガ・エスパニョーラ(当時は”ラ・リーガ”という呼称はありませんでした)も同じチャンネルで放送されており、スペインの試合も副音声でスペイン語実況を聞くことができました。
スペインと南米のスペイン語が微妙に異なることを体感として得ることができたのはこのサッカー中継の聴き比べがあったからだということは間違いありません。
とにもかくにも、アルゼンチンリーグをスペイン語実況で聞いていると、日本語実況よりも「スタンドからの音」がよく聞こえる瞬間が多いことに僕は気づいていました。
現地からの映像や音声を加工し、日本のスタジオで中継音声を入れるわけですから、多少は「ノイズ」として邪魔になる音があったことは間違いないでしょう。そして一応副音声として残す現地からの購入済み音声まで加工して消すような手間をかけられるほど、当時のチャンネルに人的コストの面で余裕があったとは思えません。
すると、副音声で中継を見ているとスタンドで歌われているチャントがとてもよく聞こえることに僕は気がついたのです。
さらに僕が驚いたのは、聞こえてくるチャントが「途切れない」ということでした。
常に何かしらのチャントが歌われているのです。
1998年の当時、日本で見ることができた海外サッカーの中継は、メインがイタリアのセリエA。頻度がだいぶ落ちてドイツのブンデスリーガやイングランドのプレミアリーグ、そしてスペインのリーガ・エスパニョーラ。さらに頻度が落ちてオランダのエール・ディビジという具合でした。
欧州のスタジアムでも頻繁にチャントが歌われているのはもちろんですが、アルゼンチンのものに比べると「掛け声」がリズミカルになっているもの、という表現ができるかもしれません。もちろんプレミアリーグのいくつかのクラブではまさに「歌」と呼べるものもあったわけですが・・・。
しかしアルゼンチンリーグの中継を見ている最中に聞こえてくるチャントの数々は、文字通り「歌」でした。しかもいくつかのチャントは各クラブ独自のものもありつつ、なおかつ普遍的なメロディーで歌詞だけが少し違っているというものもあったのです。
それらのチャントを、「インチャ」「インチャーダ」と南米スペイン語で呼ばれるファンたちが90分間延々と歌い続ける様子は、ある意味でそれ自体が一つの興行でもあるように僕には思えました。
そして2012年11月25日の夜。
僕の隣や前後には、まさに歌い続けている「ボカのインチャ」達が眉間にシワを寄せながら腕を振り上げ、飛び跳ねながら愛するクラブの戦いを見守っているのでした。
例えばスペインの場合。
もはやスタジアムに立ち見席は存在せず、スタンドの全面が座席になっています。
体型の話に目をつぶれば、観客一人一人に座席が割り当てられていて、それは「全席指定席」であることを意味します。
しかしここは違いました。ボンボネーラのゴール裏は座席などなく、だだっ広くコンクリートが打ちっ放された空間です。入れるだけ入る。詰め込めるだけ詰め込む。無意識にそんな前提で運用されているとしか思えないこの状態の中にいると、80年代に欧州で起きたいくつかのスタジアム内事故、特に「ヒルズボロの悲劇」や「ヘイゼルの悲劇」のようなことが起きた時の観客の恐怖はとてつもないものだったのだろうとゾッとします。
ピッチとスタンドを隔てるものとして金属製のフェンスが数メートルの高さで設置されていたのですが、そのフェンスの存在が「封鎖」されているという状況を如実に認識させる一つの素材になっており、ある意味では21世紀のこの時代にまだこんなスタジアム運営がまかり通っているのかという驚きを僕に与えたのでした。
と同時に、半ばトランス状態でチャントを歌い続けるボカのインチャ達を見ていると、危険だとかどうとかそんなことを考えているぐらいなら、彼らだってそもそもここには来たりしないのだろうなとも思えるのでした。
隣にいたドイツ人のマティアスを見ると、彼も彼でもはや恍惚とした表情になっており、さらに隣のアルゼンチン人と肩を組んで飛び跳ねています。さすがにチャントは歌えないようでしたが、「ロロ、ロロロロ〜、ラララララ〜」と歌詞がわからないなりにチャントを口ずさんで一体化しようとしているのはよくわかりました。
全体的にちょっと薄暗い照明に照らされたボンボネーラのピッチ。
同じく、決して明るいとは言えないスタンド。
そして飛び跳ねるインチャ達と延々歌われ続けるチャントの数々。
そこに流れる空気や目に入ってくる風景や光景は、恐らく80年代終盤から90年代初期にかけて徐々に失われた、かつて欧州サッカー界が持ち、抱えていた何かの残滓なのではないかと僕には思えました。
と同時に、かつて日常だった、そして今は失われた光景の中に自分がいるというこの状況が、何かとても貴重で価値のあることのように思えたのです。
実際にはそこまで大げさに考えるようなことでもないのはわかっているのです。
もしボカのことが好きでたまらない日本人のファンであれば30時間以上かけてもここに来るでしょうし、ゴール裏だろうとどこだろうとボンボネーラのスタンドでチャントを歌う行為自体に喜びと価値を感じ、僕が感じたような複雑で不思議な感覚を持つこともないでしょう。
少なくともスタジアムでのサッカー観戦という行為の原体験としてはスペインでの経験が大きい僕にとっては、ボンボネーラで見る様々な光景や取り巻く空気がとても興味深く、何かを考えさせるものだったことは確かでした。
確か「死ぬまでに見るべき世界のダービーマッチ」というランキングの第1位に選ばれたのが「ボンボネーラでのスーペル・クラシコ・アルヘンティーナ」、つまりボカ・ジュニオルス対リーベル・プレートだったはずなのですが、確かにラシン戦でのこの雰囲気を見ている限り、スーペル・クラシコであればそれはもうとんでもない雰囲気になるであろうことは容易に想像ができました。
あらゆる意味で「とんでもない」ことになるスーペル・クラシコの顛末を僕はこの6年後に目にすることになるのですが、それはまた別の話です。
「青と黄色のチョコレート箱」
試合は3−0でボカが勝利しました。僕とは反対側のゴールが2点。そして僕がいたほうのゴールで1点。
ゴールが決まった瞬間の耳をつんざく大歓声。
なんの意味があるのか、目の前のフェンスによじ登り始める若者たち。
そして2階席に押し込められたラシンのインチャ達を煽り始めるボカのインチャ達。
煽られた腹いせに2階から内容不明の液体をぶちまけるラシンのインチャもいました。
場合によってはそれが原因で大騒動に発展してもおかしくないような行為がいくつも繰り広げられていたのですが、全てを丸く(?)収めていたのが、「ボカの勝利」でした。
南米各国の国内リーグ戦ではしばしばアウェー席を開放せず、ホーム側のファンだけが試合を観戦するという措置を取ることがありますが、たまたまこの試合に関してはラシン側のファンが一部だけ開放されたアウェーゾーンに固められていました。
ラシンのホームタウンはアベジャネーダという街で、アベジャネーダはブエノスアイレスの隣町にあたります。車で行き来するにも40分〜1時間程度あれば十分で、恐らく中にはブエノスアイレスからアベジャネーダ、あるいはアベジャネーダからブエノスアイレスに通勤・通学している人もいるでしょう。
実際に僕はブエノスアイレスからアベジャネーダにある取引先まで移動したことがあるので、距離的に無理のあることではありませんでした。
そのため、アベジャネーダの地元ラシンファンがボンボネーラに来るということは何ら困難を伴うことではなく、問題になることがあるとすればそれはチケットの入手ということか、もしくはラシンファン向けにスタンドが開放されるかどうか=アウェーチーム向けのチケットが割り当てられるかどうかということだったはずです。
Jリーグでも近年はホーム側とアウェー側のファンの間で、場合によってはいざこざが起きることもありますが、欧州や南米ではそのようないざこざが起きる頻度が日本よりも遥かに多く、本当に気をつけていないとろくでもない目にあいかねません。
アウェーチームが勝利したりすると余計にトラブルの発生確率は上がるわけですが、その意味でこの日の試合でボカが勝利してくれたことは、僕個人の身の安全という観点では好ましいことでした。
ギッシリと詰め込まれたゴール裏から人々が徐々にスタジアムの外に出られるようになったのは、試合終了から1時間近くが経過してからでした。
VIP席やバックスタンドから徐々に退場が始まり、僕たちがいるゴール裏のスタンドから退場する許可が出たのは恐らく一番最後だったのでしょう。
これは退場時の混乱を避けるためによく行われる措置で、スペインでも経験したことがありました。
外に出るための扉の前で、扉が開くのを待っている間にふとマティアスを見ると、彼は完全に呆然自失状態になっておりすっかり呆けた表情をしています。
「大丈夫?」と声をかけると、マティアスはゆっくりとこちらを見て何度か自分自身のことも納得させるかのように「大丈夫だ、うん。大丈夫」と繰り返していました。
僕には彼の気持ち、というか彼が今どんな心理状態なのかがなんとなくわかるような気がしました。
マティアスは彼の自己紹介の通り、ドルトムント出身・在住のドイツ人です。
ドルトムントのホームスタジアムであるジグナル・イドゥナ・パルク。かつてヴェストファーレン・シュタディオンとして知られた欧州でも屈指のスタジアムでブンデスリーガを見ていたのだから、トップレベルの試合など見慣れたものだろうと僕たちは思いがちです。
これは僕自身の経験でもあるのですが、例えばJリーグしか生観戦したことがなかった1999年当時の僕にとって、初めて足を踏み入れたバライードスのスタンドから見る風景や、初めて耳にしたバルサ賛歌の歌声、初めて経験するビセンテ・カルデロンの地響きは、同じサッカー観戦の体験とは思えないほど未知の体験でした。
そして、追体験を求めてJリーグの試合を観に行っても、それはそれで魅力的ではあるのですがスペインで体験したものと同じか類似するものに出会ったことはありませんでした。
つまり、サッカー観戦の体験とは本場の料理を味わうことと同じだと僕は思うのです。
例えばガリシア料理の代表格の一つであるタコのパプリカ煮(プルポ・ア・ラ・ガジェーガ)を食べられるスペイン料理店は日本にもあります。実際に東京で僕は何軒もスペイン料理店を巡ってそこで供されるプルポを食べたこともありますが、確かにどこも美味しいのです。
美味しいのですが、ビーゴで食べたプルポと同じ味ではない。
「似たような何か」ではあるものの、「ビーゴで食べたあのプルポ」ではないのです。
ビーゴで食べたあのプルポを味わうためには、ビーゴの空気。ビーゴの風。ビーゴ湾や港の匂い。そして時折聞こえてくるガリシア語。
そうした、ガリシアの街であるビーゴを五感全てで感じさせてくれる条件が揃っていて初めて、ビーゴで食べたあのプルポを味わうことができるのです。
いくらブンデスリーガの試合をジグナル・イドゥナ・パルクで見慣れていても、それはあくまでもドイツサッカーであり、アルゼンチンサッカーではない。
ジグナル・イドゥナ・パルクのゴール裏で体験できることと、ボンボネーラのゴールで体験することは全く別の種類の体験なのです。
今のマティアスはまさにそれを全身で感じ取っている最中であるはずでした。
そういえば、と僕はこの時ふと思ったのです。
ボカのチームカラーは青と黄色。とはいえ、どちらかと言えば黄色はアクセントに近く、メインのカラーは青のイメージがあります。
対してドルトムントのチームカラーは黄色と黒です。
中継で見るジグナル・イドゥナ・パルクのスタンドは黄色が全面に出ている感じがしますし、ユニフォームの色も黄色が押し出されている感じです。
黄色をアクセントに使う青いクラブの試合を、黄色をメインカラーにするクラブのファンが体験する。
どちらもチャントが特徴的で印象深く、どちらのスタジアムも箱型で伝統的な形状のスタジアムです。
「ボンボネーラ」とは、スペイン語でチョコレート菓子の意味を持つ「ボンボン」の入れ物=チョコレート箱のことを指しています。
マティアスの頭の中では青いチョコレート(ボカ)と黄色のチョコレート(ドルトムント)がごちゃまぜになった不思議な詰め合わせ箱が出来上がっているのではないだろうか、と考えながら待っていた僕の前で、鉄製の扉がギシギシと音を立てて開かれました。
昼間は30度近くになるのではないかと思っていたブエノスアイレスの空はすっかり暗くなり、少しひんやりとした空気が流れ込んできます。
ボンボネーラの外に出ると入場前にあれだけ喧騒的だったゲートはすっかり片付けられ、僕たちが通ったゲートがあったはずの場所には、どうやら出迎えのつもりらしいミゲルがタバコを吸いながら立っていました。
「ボカが勝つところを見れてよかったな、旦那。負けてたら全員お通夜でつまらない夜になるところだったぞ」
右手の人差指と親指でタバコの吸口をつまみ、そっぽを向きながらポイッとそれを捨てるミゲルを見て、僕はかつてマジョルカやバレンシアを率いていたエクトル・クーペルがタバコを捨てる時の様子を思い出しました。
「それで、そっちの兄ちゃんはすっかり呆けているなwまあいいさ。旦那はホテルに帰るんだろう。金は取らないから乗せていってやるよ」
とミゲルは笑いながら言いました。なぜ金を取らないのかと尋ねると、僕が大男に払ったチケット代からミゲルも紹介料として幾ばくかキックバックをもらっているから、ということでした。どうやらボカはあらゆる意味でブエノスアイレスの小さな経済圏すらも生み出す存在のようです。
マティアスに泊まっているのはどこなのかと聞いてましたが、彼は全く地理感覚を持ち合わせていませんでした。ホテルのカードとか、予約のメールとかそんなものはないのかと聞いてみると、かろうじて彼はホテルのカードキーを持っており、確認してみると僕が泊まっているホテルのすぐ近くであることが判明したのです。
ホテルがあるプラサ・デ・マージョ(5月広場)に戻るまでの車中、マティアスはずっと窓の外を見ながら一人で何かをブツブツとつぶやいていたのですが、明らかにドイツ語だったために僕には何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。
ミゲルは少し心配して「その兄ちゃんはどうしたんだ。大丈夫か?」と僕に聞いてくるので、僕は英語でマティアスに大丈夫かどうか尋ねたのですが、僕の問いかけにはきちんと英語で「大丈夫だよ、問題ない」と返してくるので、それをそのままスペイン語にして僕はミゲルに通訳したのでした。
とはいえ、ミゲルとしても僕としても、わからない言葉でブツブツとつぶやかれ続けているのを聞いているのは、あまり心地よい体験とは言えません。
ホテルの前に到着し、僕がタクシーを降りるとミゲルもわざわざタクシーを降りて握手を求めてきました。
とはいえ、はっきり言うと別に握手をするほどのことをミゲル自身と行ったわけでもありません。スペイン語圏によくありがちな大げさなパフォーマンスの一つだろうと思い、それに付き合うつもりで握手を返すと、ミゲルが言いました。
「楽しい体験だった。ラテンアメリカの他の国の奴を紹介したことはあったんだが、日本人なんて初めてだったよ。高原がいたときだって日本人を乗せたことはなかったんだ。アンタを乗せたおかげで、俺は日本人てのがどんなやつなのかなんとなくわかった。感謝する。あと何日アルゼンチンにいるのか知らんが、車が必要ならいつでも呼んでくれ!」
しわくちゃになった名刺を僕に渡しながらミゲルはそうまくし立て、「じゃあな!また会おう!」と叫ぶと、黄色と黒の”ドルトムント・カラー”のタクシーはその場から去っていったのです。
「すごい体験だったよ」
と、それまでほぼ無言だったマティアスが突然口を開きました。
「地元でもゴール裏で見ることがあるんだけど、今日のは異世界だった。初めての経験だよこれは」
興奮した様子というよりは呆然としつつ、なおかつしみじみとした様子でマティアスは遠くを見ています。
「86年の決勝でアルゼンチンか勝った理由がわかる気がする」
とマティアスは86年ワールドカップの決勝戦、アルゼンチン対西ドイツのことを引き合いに出して語り始めたのですが、どう見たって彼はその試合をリアルタイムで見ているはずはありません。
しかし、僕はそれを笑う気にはなれませんでした。
サッカーはある意味では様々な側面の「歴史」を内包しています。
スポーツ的な側面はもちろん、文化的な側面での歴史もサッカーは持ち合わせていますし、文字通り世界史の代弁者としての役割を果たすことさえあると僕は思っています。
そういった観点からすると、たとえリアルタイムで1986年ワールドカップの決勝を見ていない彼がその試合で起きたことを引き合いに出して語ったとしても、それはそれでサッカーがその役割の一つを忠実に果たしていることの証明であると思うのです。
英語で懸命に何か僕に語りかけ、「楽しかったよ。近くにいてくれてありがとう」と握手をして自分の宿に引き上げていくマティアスの背中を見送りながら、僕は思ったのです。
もしかしたら、彼は彼なりにボンボネーラで感じた熱気や空気が生み出すものと、86年ワールドカップでマラドーナに率いられたアルゼンチン代表が母国の代表を叩きのめす様子に共通する何かを感じ取ったのかもしれない、と。
サッカーには正解がない、とはよく使われるフレーズです。
プレーそのものもそうだと思いますし、僕は個人的にファンが受け取る感情や印象にもそれは当てはまるのではないかと思っています。
ある試合に関する評価。解釈。理解。
そういった諸々のことを含めて、ファン一人一人が自分なりの答えを持って受け止める事象というのがサッカーには必ずあると思うのです。
もしこの夜のマティアスが僕の予想通りの感じ方をしていたのだとしたら、ひょっとするといつか世界のどこかのスタジアムで彼と再会した時、僕たちはいい友人になれるのかもしれません。
ただしそのためには、どこかフラフラしながらホテルに向かうマティアスが、彼の中に抱え込んだ「青と黄色のチョコレート」が詰まったチョコレート箱の中身を、もう少し時間をかけて消化する必要はありそうでした。
第1話はこちら
第2話はこちら
第3話はこちら
第4話はこちら
第5話はこちら
おわり