応援するクラブとの出会い方は人それぞれ
僕はセルタ・デ・ビーゴのファンをかれこれ23年間ぐらい続けています。
他にも日本人で同じぐらい長く、あるいはそれ以上セルタを応援している人はいるかもしれませんが、少なくとも僕やそのような方々はこの23年間、日本で最も多くセルタの試合や情報に触れてきたと思っています。
「なぜセルタなんだ?」
と聞かれることは今まで何度となくあり、そしてその問いに対する答えを持ってもいるのですが、正直「なぜか」はあまり深く考えてきませんでしたし、深く考える必要もなくなっているというのが僕の本心です。
そんな中、Twitterでこんな話を見ました。
TVゲームでの出会いから、日本のフットボール・ファンが6,000マイルを旅してストックポート・カウンティの観戦をするに到る可能性がどれだけあっただろうか?アキトに敬礼だ
アオキ・アキトは愛するカウンティの土曜のホームゲームの特別ゲストで、文字通り赤絨毯で迎えられた
(BBC) @StockportJP https://t.co/ZpPn00A7Gx
— belsize park (@route268) February 15, 2020
TVゲームのFIFAで、イングランド・ナショナルリーグ(他国での5部リーグ相当)に所属するストックポート・カウンティというチームを使い続けるうちにクラブそのもののファンになり、ついにホームスタジアムを訪問しクラブに大歓迎されたというニュース。
サッカーの世界は広く、本当に数多くのクラブや選手が世界に存在します。
移籍を中心にしたサッカーの「マーケット」は世界中で繋がっていて、文字通り世界のどこでプレーする選手にも、実力や運を引き寄せることができればチャンピオンズリーグの決勝でプレーするチャンスを手にする機会が訪れる可能性があります。
このアキトさんの話は、ファンにとっても似たようなことが起こりうるということを示していると僕は思いますし、好きなクラブ、応援するクラブとの出会いというのはどこに転がっているかわからないという明確な事例ではないでしょうか。
ひょっとしたら「TVゲームで知った・・・?」と首をかしげる人もいるのかもしれませんが、何かを知るきっかけというのはいつどこに転がっているかわからないものです。
もしアキトさんがTVゲームをやっていなかったら?FIFAではなく、PES(ウイイレ)だったら?
この出会いや出来事は起こり得なかったということになります。
出会いのきっかけがどうだったか、ということではなく、何か情熱を傾けられる物事との出会いがいつどこでどう訪れるのかわからなくて、情熱を傾け続けることをやめなければ自分にとって幸せな何かはいつでも起こりうると証明されたこと自体に、僕はたまらなく感動するのです。
クラブとの関係は希少ではあるが、奇跡ではない
僕がビーゴでセルタの年間会員=アボナードになっていたちょうど20年前当時。
ソシオ事務所で15年働いていると自慢していたおばちゃんの記憶では、少なくとも過去のセルタに日本人の年間会員はいなかったそうです。
そしてビーゴ周辺にも日本人の在住者は僕の知っている限り2〜3人しかいませんでした。
僕がセルタを知り、応援するようになったのは1997−1998シーズンの途中からでしたが、それまでのセルタは昇格と降格を繰り返すエレベーター・クラブのうち「その他大勢のうちの一つ」(これは今でも大差ないのですが)。
現在のようなインターネットが存在すらしなかった当時の日本において、セルタの名前を見聞きするのはサッカー専門誌の順位表か、たまに放送するNHK-BSのリーガ・エスパニョーラ中継でのダイジェスト映像の中ぐらいでした。※当時はまだ「ラ・リーガ」というブランドネームは存在しませんでした。
そんな状況で突然クラブの事務所に日本人が現れ、「ソシオになりたい」とスペイン語で話し始めたわけですから、あのおばちゃん達の驚きは想像に難くありません。
珍しさが先に立っていたことは間違いないでしょう。
年間会員カードで入場するバライードスのメインスタンド、トリブーナのゲート係員はさんざん僕を舐め回すようにジロジロ見ていましたし、「何しに来たんだ」と言われたことも1度や2度ではありません。
年間通じて確保されているはずの「僕の席」に我が物顔で座る他人と席をあけろあけないで言い争いになったことも開幕当初は何度もありました。
そのうち彼らは僕の友人になり、ゲートの係員であるマノーロ氏は「俺がビーゴでのお前の父親代わりだ。困ったことがあれば電話しろ」と電話番号をくれて自宅に招待してくれるようになり、親子3代で僕の席を占拠していじめてきた家族のお父さんは、セルタがゴールを決めると息子放ったらかしで僕に抱きついてくるようになりました。
バライードスの試合は1試合も欠かさず、可能な限りアウェーについていくうちにゴール裏のコマンド・セルタやセルターラスというウルトラグループにも顔を覚えられ、そのうちビーゴの地元紙であるFARO DE VIGOの記者から取材を受けて紙面に記事が載りました。
ガリシアの地方TV局であるTVGのインタビューを受けたことがきっかけで、ビセンテ・カルデロンでのアトレティコ対 の試合を観に行ったらよくわからない街の人間から憎悪にまみれた罵声を浴びせられるようになり、とうとう僕の存在はクラブ首脳陣も知るところになっていました。
ある日、VIP席会員である友人に試合後呼ばれ、「会わせたい人がいる」と連れて行かれた先には当時のセルタ会長オラシオ・ゴメスとゼネラル・マネージャーのアルフレード・ロドリゲスの姿。
「ダービーの時は大変だったようだね」
とアウェーのガリシアダービーで僕が巻き込まれた事件についても知っていた彼らは、笑いながらその苦労をねぎらってくれたのでした。
僕は別に「セルタの会長と知り合いになりたい」とか、「クラブにとって特別な存在として認められたい」とか、そういう欲求を持っていたわけではありません。
ただセルタが好きで、セルタの試合をバライードスで見ることを望み、可能な限り近くでセルタを見ていたかっただけの「ごく普通のファンの一人」でしかありませんでした。
確かに当時のセルタにとって日本人の年間会員というのは珍しい存在だったでしょうし、僕が追いかけていたのがセルタという取るに足らない地方クラブであったことも当時起きた出来事に巡り合う大きな理由の一つだったことは間違いないでしょう。
ただしそうだったとしても、もし僕が毎回バライードスに行っていなかったら。アウェーには全く行かなかったら。メディアの取材を拒否していたら。
オラシオ・ゴメスやアルフレード・ロドリゲスが僕の存在を知ることはなかったはずです。
現代で言えばSNSでクラブのことを話したり、こうしてブログでクラブのことを書いたりすることが、当時では現地で実際に動くという手段だっただけなのだろうと僕は思っています。
好きなクラブと何らかの形で直接の繋がる機会を得るのは、たしかに希少なことです。
しかし、それが「奇跡」と呼ぶほどのものかというと、僕は決してそうではないとも思います。
たまたま見た試合で印象的なゴールを決めた選手がいたことも、TVゲームでたまたまそのチームを使うようになったことも、本人の中ではクラブを応援することになる十分なきっかけであり、どんなことがきっかけだったとしても応援するクラブを追い続けていれば、それは何かの形で自分に返ってくるのだろうと僕は考えています。
どんな世界でも必ず「にわか」に関する意見や論争が起きることがありますが、僕は正直そんなことはどうでもいいことだと思うのです。
自分の隣にいる誰かが仮に「にわか」なのだとしても自分には関係ないし、自分で自分のことを「にわか」だと思っていたとしても、それは他人には関係ない話。
自分がどんな存在で、どんな種類のファンだったとしても、自分が対象を応援し好きな気持が変わらないのであればそれでいいのではないかと僕は考えます。
いつ自分にとって「よかった」と思える結果が訪れるのかはわかりませんが、
「好きこそものの上手なれ」
「継続は力なり」
ということの2つの格言は、少なくとも真実のうちの一つでしょう。
たまたまみかけた一つのTweetで、僕はそんなことを思ったのでした。