2000年11月19日 スペイン王国 アンダルシア州 州都セビージャ
リーガ・エスパニョーラ セグンダ・ディビシオンA 2000−2001シーズン 第13節 エスタディオ・マヌエル・ルイス・デ・ロペーラ |
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ベティス | 1-3 | セビージャ |
47分:カピ | 得点者 | 56分:テベネ 77分:オリベーラ 81分:オリベーラ |
監督 | |||
フェルナンド・バスケス | ホアキン・カパロス | ||
背番号 | 先発選手:ベティス | 先発選手:セビージャ | 背番号 |
1 | プラッツ | ノターリオ | 13 |
24 | トーレス・メストレ | ダビ | 3 |
21 | フィリペスク | プリエト | 4 |
12 | ベレンゲル | パブロ・アルファロ | 24 |
23 | ベンハミン | セサル | 21 |
14 | カピ | ガジャルド | 28 |
5 | パボン | タイラ | 14 |
15 | イト | カスケーロ | 22 |
9 | アマト | ディエゴ・リベーラ | 18 |
27 | ホアキン | フレディ | 10 |
10 | カーニャス | オリベーラ | 11 |
交代 | |||
13 | バレーリオ | オテーロ | 9 |
17 | ロメーロ | テベネ | 12 |
22 | ガルベス | エクトル | 20 |
第2回はこちら
一本の電話。グァダルキビール河畔にて。
スペイン4大放送局の取材を受け、セビージャダービーのチケットも無事に入手しホッと一息ついた僕は、上がりきったテンションをそのままにエスタディオ・マヌエル・ルイス・デ・ロペーラの周囲をぐるりと一周しました。
マヌエル・ルイス・デ・ロペーラは不思議な構造をしたスタジアムで、上空から見ると「」のような形をしています。
周囲を歩いて一周すると、ところどころスタジアムの中が垣間見えるようになっているため、そのポイントに辿り着く度に僕の頭の中には「もうすぐこの中ですごい試合が見られるのだ」という気分が沸々と湧き上がり、上がりきっているはずのテンションがさらに上っていくのを感じていました。
ひとしきりスタジアムを見学してから試合開始まではまだ4時間以上の時間があります。
僕は早速スタジアム前の大通り、アベニーダ・デ・ラ・パルメーラ(パルメーラ通り)に出てバスに乗ることにします。
AVEでサンタ・フスタ駅についた直後、「i」マークのある観光案内所でセビージャ市の観光地図をもらっていました。
それによると、マヌエル・ルイス・デ・ロペーラからプラサ・デ・エスパーニャ、大聖堂カテドラル、黄金の塔、そして闘牛3大聖地の1つであるラ・マエストランサ闘牛場がほぼ一直線に並んでいることがわかったので、4〜5時間もあれば昼食を食べつつ目的の観光も一気にこなすことができると僕は考えたのでした。
どのバスに乗ればいいのかなどは考える余裕もないほどテンションが上っていた僕は、目についたバスの運転手にカテドラル方面へ行くかどうかだけを確かめ、「行くよ」と答えた運転手のバスに乗り込み一路セビージャ市北部を目指します。
観光地図を片手にバスに乗り込んできた東洋人が在住者であるはずもなく、目ざとくそれを見つけたスペイン名物「暇なジジババ」の集団が、しばらくすると僕に話しかけてきました。
「坊や、どこへ行くんかね」
ジジババ特有のイントネーションでフガフガと話しかけられた僕は、試合までの数時間を観光に使おうと思っています、と目的地をいくつか伝えました。
すると20分もしないうちにバスはプラサ・デ・エスパーニャに辿り着き、ジジババ達は僕の代わりにバスのブザーを押し、
「坊や、ここがプラサ・デ・エスパーニャだ。おりなされ。カテドラルもヒラルダの塔も全部歩いていける。馬車には乗るなよ。それからギターを持った男には近づくな」
と親切にも教えてくれました。
この「ギターを持った男には近づくな」というのにはちゃんと意味があります。プラサ・デ・エスパーニャとは、日本語にすると「スペイン広場」という意味なのですが、もちろん映画「ローマの休日」に出てきたイタリアのあれとは全く違います。
広場は広場でそれこそ本当に「広い場所」であり、スペインの町にはどこへ行っても「プラサなんとか」が必ず存在し、一番大きな「プラサなんとか」がほぼ町の中心であることがほとんどです。
セビージャのプラサ・デ・エスパーニャはマリア・ルイーサ公園の中にあり、他の町とは違って半円形の劇場のような形をした場所でした。
そして、マリア・ルイーサ公園の周辺にはバカ高い料金で優雅に観光を楽しめる馬車が走り回っているのですが、つまりジジババは「やつらはぼったくりだから気をつけろ」と忠告してくれているわけだったのです。
そして「ギターを持った男」というのは流しのギター弾きで、馬車に乗った観光客の横を並走しながらフラメンコやセビジャーナスといったアンダルシア舞踊の曲をひたすらひき続け、目があったり拍手でもしようものならチップを払うまで延々ニコニコしながら付いてくるというこれまたたくましいボッタクリのことでした。
素敵な女の子と一緒ならともかく、男一人で馬車に乗っても楽しいことなんかありませんし、僕はギターよりもガリシアの民族楽器であるガリシア式バグパイプ「ガイタ・ガジェーガ」のファンです。
「あいにく馬車にもギターにも興味はありませんよ」とジジババに忠告のお礼を言ってバスを降りると、僕はプラサ・デ・エスパーニャまでの道のりをテクテク歩き、写真を何枚か撮ってから池のほとりで地図を広げました。
ジジババの忠告どおり、「ギターを持った男」が数人ウロウロしながらさほどうまいとも思えない演奏を繰り広げ、観光客にチップをねだっていましたが誰も彼らに小銭を渡すものはいませんでした。
地図によればパルメーラ通りまで戻って通り沿いに北に向かえばグァダルキビール河畔に鎮座する黄金の塔に辿り着きます。そこからさらに北東へ向かえばカテドラルとヒラルダの塔。そしてカテドラルの北西にはこれまた歩いていける距離にラ・マエストランサ闘牛場があるということでした。
ではまず黄金の塔で大航海時代の船乗りに思いを馳せよう、と思い地図を閉じ、スッと立ち上がって顔を上げた瞬間。
僕の目の前にさっき見かけたギター男の1人がニコニコしながら立っていました。
唐突なことに驚いた僕は、うっかりそのギター男の顔をまじまじと見てしまったのです。
よく見たらその男は元イタリア代表のダミアーノ・トンマージにそっくりでした。チリチリ頭から髭面までそっくりそのまま。トンマージが白シャツにタキシードのようなジャケット姿で、赤い布で装飾したギターを抱えているところを想像してみてください。それがそのギター男の姿です。
貼り付けたような笑顔を微塵も崩さず、トンマージもどきは右手をすっと僕の前に差し出しました。
「お前聞いていただろう。払え」
彼の顔は笑顔とは裏腹に明らかにそう言っていました。やられた、と思いながら黄金の塔へ向けて歩き出しますが、トンマージもどきは相変わらず作り笑顔を崩さないまま右手を差し出したまま僕の真横をくっついて歩いてきます。さすがトンマージに似ているだけはあります。スッポンのような張り付くディフェンスは相当にスキルフルなものでした。
マリア・ルイーサ公園の出口まで来てもトンマージもどきは僕の横から離れようとしません。パルメーラ通りまで出ても、トンマージもどきも僕も一言も発しないまま無言で歩き続けていました。
恐らく傍から見れば異様な光景だったことでしょう。
真顔の若い東洋人と、元イタリア代表ダミアーノ・トンマージみたいなチリチリ頭で笑顔のギター男が無言で歩いているのですから。
そのまま結局黄金の塔まで辿り着いた僕は、どこか店に入ってしまえば諦めるだろうとタカをくくり、適当に目についたバルに飛び込みました。しかしさすがトンマージもどき。なんと彼は僕と一緒に右手を差し出したままバルに一緒に入ってきたのです。
恐らく同じようなトラブルを持ってくる客が多かったのでしょう。飛び込んだ先のバルの親父が心底嫌そうな顔をして僕に「ぺい、ひむ!ごー、あうぇい!」と下手くそな英語で怒鳴りました。「払わない限りいなくならないからさっさと払って追い払え」というわけです。
僕は仕方なく1000ペセタをトンマージもどきに渡さざるを得ませんでした。ちなみに「ペセタ」とはユーロ以前のスペインの現地通貨で、1000ペセタは当時のレートで約700円程度でした。
ようやくトンマージを追い払うと時間は12時を過ぎています。もう適当になにか食べてさっさと観光を済ませようと思った僕は、せっかくセビージャに来たのだからと地元セビージャが本社のクルス・カンポというビールを頼み、適当にタパスを注文しバルのカウンターに腰掛けました。
11月だというのに30度近くある気温の中、石造りのひんやりとした店内で闘牛のビデオを見ながら飲む冷えたビール。サラリーマンがビアガーデンを最高だというのもなんとなくわかるような気がする、と思い始めていた時にけたたましく僕のポケットから電子的な音でワーグナーの「ワルキューレの騎行」が鳴り響きました。
ポケットで勇ましく自己アピールをするバイブ機能もついていないNOKIAの携帯を引っ張り出し通話ボタンを押すと、電話の向こうでゲラゲラ笑う声がしてビーゴの友人達がなにか叫んでいます。一体何があったのかと尋ねると、彼はこう言いました。
「おい、お前なかなかやらかしたなwww」
何のことかさっぱりわかりません。何のことかと聞くと、Antena3のニュースに僕が出ていたというのです。スペインでは昼間のニュース番組の分量が多く、地方都市では昼食を自宅で食べる人が多いため基本的にほとんどの人が昼のニュースを見ることになります。
そのニュース番組のスポーツコーナーでどうやらさっき受けた取材の様子が放送されていたようなのです。
しかもよくよく聞くと、僕はなかなか香ばしいコメントを残したことになっていました。ニュースの中で僕は
「日本から来ました。」
取材班「日本!すごい、わざわざ日本からこの試合を見に来たんですか?」
僕「いえ、今はスペインで勉強しているので。でもセビージャダービーは日本でも人気のある試合ですよ。ベティスのファンも日本にはいます」
取材班「なるほど!試合はどんな展開になると思います?どっちが勝つと思いますか?どちらか贔屓のチームはあるのかな?」
僕「ベティスのホームなので本来はプリメーラレベルのチームだし、ホームチームが勝つ」
などとのたまっていたというではありませんか。
完全にコメントの切り貼りです。
やれやれ、テレビって怖えな、と呑気な答えを返しながら電話を終え、支払いを済ませた僕はさっさと黄金の塔に向かい、カテドラルやヒラルダの塔、そしてラ・マエストランサの見物を堪能したのです。
観光を終えると時刻は14時半。僕はワクワクしながらマヌエル・ルイス・デ・ロペーラに戻ることにしました。
セビジスタとの遭遇とベティコの壁
パルメーラ通りまで戻ってからバスに乗ったものの、バスはマヌエル・ルイス・デ・ロペーラよりもだいぶ前で止まってしまいました。
試合前後の交通混雑を避けるためとサポーターの通行を確保するために一部の道路が封鎖されていたのです。
仕方なくバスを降りて徒歩でスタジアムへ歩き始めると、周りはベティコ=ベティスファンだらけになってきました。お馴染み緑と白のストライプのシャツに身を包んだ男たちが、愛するクラブの名前を叫びながら照りつける太陽の下を闊歩する光景。
「これだ。俺はこれを見に来たのだ」
と湧き上がる感動を抑えながら彼らから少し離れてその様子を眺めつつパルメーラ通りを歩いていると、父親に手を引かれて歩く子供の何人かがジーッと僕を見つめてから父親に話しかけているのが聞こえました。
「パパ、あの中国人さっきテレビに出てた奴だよ」
”中国人”というのはスペイン語圏、特にスペイン本国で使われる東洋人に対する総称兼蔑称のようなもので、言われるこちらとしては「中国人じゃないよ」と思っていても、彼らにはこちらが日本人だろうが中国人だろうが韓国人だろうが「どうでもいいこと」です。
東洋で大きな国、スペインでよく見かける東洋人がたまたま中国人だから使われているだけで、恐らく日本が中国ほどの国土を持っていてスペイン国内で日本人が生活に根付くほどの商売やビジネスを展開していたら、スペイン語圏における東洋人の総称は「日本人」になっていたことでしょう。
ともあれ、僕が見ることのなかった昼のニュースはやはり多くの人が目にしていたようで、その親子連れだけでなく他にも僕を指さしてクスクス笑ったり「チン、チャン、チュン、チョン!(中国語の発音をバカにしたからかい文句)」とか「ソージー・ジョー(城彰二のこと)!プセラ(バジャドリーの別名)に帰りな!」とか好き放題言う連中が周りに現れ始めました。
こういうことをしてくる連中はたいていこちらがスペイン語を話せないと思いこんでやってくるので、もはや慣れっこになりどうやり返せばいいのかも心得ていた僕は、目の前まで来てわざわざ言ってくる人物がいれば目前まで顔を近づけてスペイン語でありとあらゆる罵声を浴びせることにしていました。
そうすればだいたいの場合はこちらがスペイン語で、しかも外国人が口にするべきではないような種類の罵詈雑言まで口にすることに驚き、トーンを下げて去っていくからです。
そんなやり取りを2〜3度繰り返し、パルメーラ通りとトルクアト・ルカ・デ・テーナ通りの交差点に差し掛かったときでした。グァダルキビール河を右手に見ながら歩いていた僕から見て左側の信号に、セビージャのサポーターグループと思しき集団がいることに僕は気づきました。
革袋のワインをガブガブと回し飲みしながらベティスをけなす歌を歌い、すれ違う通行人に眉をひそめられても気にする素振りすら見せない、そういう種類の連中です。
ちょうどトルクアト・ルカ・デ・テーナを渡ろうとしていた僕と彼らは、交差点をクロスする形で鉢合わせる形になっており、信号待ちをしている間に一瞬彼らが静かになったかと思うと、突然彼らの1人が僕を指さして叫びました。
「てめえっち、中国人のクソガキ!さっきは舐めたこと言いくさっとってゴルァ!!!!」@アンダルシア訛り
瞬時に僕はマズいことになったと悟ります。
彼らからすれば、これから憎きベティスを叩きのめすために腹ごしらえをしている最中、よくわからない東洋人がテレビで堂々と「本来プリメーラレベルのベティスがホームだからベティスが勝つだろう」とのたまっているのを聞かされるハメになっていたわけです。
確かに逆の立場だったら愉快なはずがありません。
まだマヌエル・ルイス・デ・ロペーラまでは数百メートルの距離。信号が変わり次第ダッシュでスタジアムに逃げ込もうかとも思いましたが、交差する形で対峙している以上僕が信号を渡れば彼らが僕の左から鉢合わせ合流する形になるのは明らかでした。
運悪くスタジアム前の警備に来ている警察の車両はまだかなり遠くにしか目に入っていませんでした。
これはどうやって逃げようかと思案しているうちに信号は青になり、捕まる前にダッシュで逃げるしかないと腹をくくって歩き出した僕の左からは「中国野郎」だの「消え失せろ」だのと罵声を上げながらにじり寄ってくるセビジスタの集団が近づいてきます。
バッグを担ぎ直してダッシュしようとした瞬間、唐突に僕は後ろから肩をつかまれ、目の前に数人の男たちが現れました。
そしてその中の何人かがにじり寄ってくるセビジスタ達に叫んだのです。
「なんだこらてめえっちら!俺らの連れに文句あんならやんぞゴルァ!!!河に捨ててやろうかボケェエエエ!!!」@アンダルシア訛り
よく見ると僕の周りにはベティスの旗を振り回し、緑と白のストライプシャツに身を包んだベティコの集団がいて、僕はいつの間にか彼らに取り囲まれる形になっていました。
何が起こっているのか理解に時間がかかっている僕に、ぶよぶよのお腹をベティスのユニフォームに何とか突っ込み、もじゃもじゃの髭面を真っ赤にアルコールで染めたおじさんが話しかけてきたのです。
「おめえさん、昼はいいこと言ってくれたな!やっぱベティだろう?ベティが最高だってんならおめえもベティコみてええなもんだし、おめえがベティコなら俺っちらの仲間みてえなもんよ!!ビジャマリンまで一緒に行くぞ!おら、おめっちも歌え!」
左側と正面、背後をベティコの集団に囲まれ、ベティコ達とセビジスタ達が口汚く罵り合うのを聞きながら僕はマヌエル・ルイス・デ・ロペーラを目指すことになりました。
ベティコとしてはこの年に名前が変わったスタジアム名称は変わらず「ベニート・ビジャマリン」だと思っていること。今のスタジアム名は気に入らないことや、ベティコにとってセビジスタがどんなに下品で見下げ果てた連中なのかを彼らは僕に語って聞かせるわけですが、アンダルシア訛りのせいで正直相変わらずところどころ何を言っているのか聞き取れません。
囲まれているために周りで何が起きているのかもよくわからなかったのですが、道に何かが投げつけられる音や怒鳴り声が聞こえた後、警官が走って来てセビジスタ達が離れていったことから想像するに、恐らく一悶着起こりかけていたのは間違いないでしょう。
人の合間から見てみると、それ以降セビジスタ達が僕らと一定の距離を保ったままスタジアムに辿り着き、入念なボディチェックを受け始めているのが目に入りました。
さっさとスタジアムに入って腰を落ち着けようと思っていると、さっきのパツパツおじさんが再びやってきて僕に席はどこなのかと尋ねてきました。
メインスタンドの下段だと答えると彼らも同じだと言います。するとおじさんは僕にこう言いました。
「坊や、試合が終わっても席をたつなよ。試合後はセクターごとに退場することになるから、自分の番になったら入ったゲートの前で待っているんだ。いいな。1人で帰るんじゃないぞ!!」
試合終了は18時でしたが11月でもスペインでは20時頃まで日が残っているため暗いわけでもありません。
しかし安全面を考えると言うことを聞いておいたほうが良さそうだと僕は判断し、わかりましたと答えて試合終了後も彼らと合流することを約束しました。
そしていよいよ、僕はマヌエル・ルイス・デ・ロペーラに入場。後にも先にも一回こっきりの体験となっているセビージャダービー、しかもセグンダAでのセビージャダービーのキックオフはもう数十分後に迫っていました。
つづく