【体験記】バレンシアーノはカタルーニャの夜空に轟く

La Liga情報

1999年2月27日 スペイン王国 カタルーニャ州 州都バルセローナ

リーガエスパニョーラ1998-1999シーズン
第24節
カンプ・ノウ
バルセローナ2−4バレンシア
30分:クライフェルト
79分:クライフェルト
得点者4分:イリエ
37分:クラウディオ・ロペス
82分:アングーロ
87分:クラウディオ・ロペス
監督
ルイス・ファン・ハールクラウディオ・ラニエリ
背番号先発選手背番号先発選手
13へスプ1カニサーレス
12セルジ3フアンフラン
5アベラルド5デュキッチ
25フランク・デ・ブール15カルボーニ
18ロナルド・デ・ブール12ビョルクルンド
4グァルディオーラ16ロシュ
6オスカル6メンディエータ
15コクー8ファリノス
21ルイス・エンリケ23アングーロ
11リヴァウド7クラウディオ・ロペス
19クライフェルト11イリエ
交代
23ゼンデン18ポペスク
8セラーデス25ソリア
9アンデルソン10シュヴァルツ

手探りのスタート

1999年1月末。

極寒のカスティージャ・イ・レオン州サラマンカで僕のスペイン生活は始まりました。

朝は氷点下。窓が結露しシャワーは蛇口を捻っても1分ほど拷問のような冷水が出るほど水道管が冷え、そうかと思うとマンション全体がセントラルヒーティングなので部屋が寒いわけでもない。

朝食は濃厚なコーヒーとジャムがたっぷり塗られたトーストに、塩気の効いたフレンチオムレツに刻まれた生ハムが入っており、大学へ行くために玄関に向かうと「持っていきなさい」とみずみずしいオレンジやリンゴを渡される。

地上へ降りるエレベーターの前で隣家のおばあちゃんと毎朝顔を合わせ、4階でいつもイヤホンを付けてノリノリの若者とOL風の黒髪女性が乗ってくる。

マンションの目の前にある路上スタンド「キオスコ」でMARCAかAS、どちらか一面が面白そうなほうを125ペセタで買い、バッグに放り込んでからポケットに手を突っ込んで大学へ向かう。

そんなルーチンに入り込むことになった僕のスペイン生活は、何もかもが新鮮であらゆることに興奮する刺激に満ちたものでした。

スペイン語を専攻し始めてから10ヶ月でスペインの地に降り立った僕は、いくつかの目的をどうにかして達成することをひたすら考え続けていました。

1つ目はビーゴに行き、バライードスでセルタの試合を観戦すること。

2つ目はサンティアゴ・ベルナベウとビセンテ・カルデロンで試合を観戦すること。

そして3つ目はカンプ・ノウでバルサの試合を「メインスタンドで、選手入場から」観戦することでした。

当時通っていたサラマンカ大学のある古都サラマンカは、スペインの首都マドリーから約300km。スペイン国鉄RENFEか長距離バスで2時間半〜3時間の距離にあり、僕が通っていたサラマンカ大学は1218年に創立された、スペイン最古の大学として有名です。

大学を中心として広がる旧市街は、それそものが世界遺産に登録されている中世そのままの町並みで、町全体に点在しているサラマンカ大学のキャンパスを取り巻くように、おびただしい数のバルやレストラン、カフェテリーアや食堂が立ち並んでいる町がサラマンカという町でした。

「スペイン語ゼロ歳児」の「はじめてのおつかい」

この時の僕はスペイン語年齢が10ヶ月。

「スペイン語話者」としては乳飲み子状態だったわけで、当然今ほどスペイン語が話せず、インターネットも2019年現在から比較すると貧弱であり、むしろ無いに等しいような状態の中で、僕は必死にビーゴやマドリー、そしてバルセローナへ向かう交通手段や試合チケットの入手方法を模索していました。

最終的にたどり着いた結論は「旅行代理店を使う」というものだったのですが、何を言いたいのかよくわからない東洋人が必死に訴える様子を見てかわいそうに思ってくれたのか、アベニーダ・ポルトゥガル(ポルトガル通り)の角にあった旅行代理店Halcon Viajes(アルコン・ビアヘス)のお姉さんは今から考えても女神のような辛抱強さで僕の応対をしてくれたのでした。

その日、大学の授業を終えた僕は大急ぎでアルコン・ビアヘスに駆け込みました。スペインでは昼13時頃〜16時頃まで昼休みのために閉まる店も多く、ちょうど大学と自宅への通り道にあったそのアルコン・ビアヘスは13時半頃から昼休みに入ることを僕は確認済みだったため、その前になんとかしたいと焦っていたのです。

「わたくし、日本からきました。今週末はビーゴへ行くんですけども、本当のところを申し上げれば、来週はバルセローナに行きたいと考えている最中なのです。目的はサッカーの試合を見に」

店に入ると開口一番、実際にはこの日本語よりも遥かにひどい文法で、ぐちゃぐちゃな文章を僕はお姉さんに投げかけたわけですが、そこから先はもっと酷かったというのが本当のところです。

当時のスペインには全国的なチケット販売網が存在せず、マドリーの試合はマドリーで。セルタの試合はビーゴで。バルサの試合はバルセローナでなければ買えないというのが当たり前でした。

しかしこの時が初めてのスペインだった僕はそんなことを知る由もなく、なぜかお姉さんにセルタとバルサのチケットはどうすれば買えるのかを尋ねていたのです。

(以下、完全に楽観的意訳)

「旅行代理店でサッカーのチケットは買えないわよ。欲しかったらスタジアムに行って直接買わないと。わざわざ日本から来ているなら、当日の朝に到着するようにして早めにチケットを買ったらいいんじゃないかしら。土曜日に着けば一泊して観光もできるし、ビーゴもバルセローナも食事が美味しいから楽しいと思うわ」

しれっとホテルの予約を売り込む姿勢がさすがだと今では思うのですが、当時の僕にそんなことを考える余裕はなく、しかもガイドブックは持ってきているものの直接ホテルに電話をかけるようなスペイン語力も度胸もなかった僕は、お姉さんの優しげな笑顔と売り込みに完全にやられ、アルコン・ビアヘスでビーゴ行きの電車とホテル。そしてバルセローナ行きの電車とホテルを予約し、それぞれの予約票を握りしめながらホクホクしつつホームステイ先の自宅へ帰ったのでした。

コパ・デル・レイの衝撃

この1998−1999シーズンのバレンシアはある意味で僕にとって衝撃的なチームでした。

強固なディフェンスからガイスカ・メンディエータを中心とした超高速のカウンターを繰り出し、誰も追いつけないスピードのクラウディオ・”ピオホ”・ロペスがフィニッシュする。

ガチガチのカウンターサッカーはつまらない、サッカーはスペクタクルなものであるべき、といった意見が散見された当時において、クラウディオ・ラニエリとバレンシアが作り上げた芸術的な超高速カウンターは、創造性に溢れたボールコントロールやテクニックを駆使してゲームを作り上げていくタイプの選手が人気を博した時代において、一種のカウンターカルチャーのような鮮烈な輝きを放っていました。

最終ラインだろうとどこだろうと、ボールを奪ったら2タッチか3タッチで相手ペナルティエリアにたどり着く恐ろしいまでの効率性を完全に構築していながら、ガイスカ・メンディエータやフランシスコ・ファリノス、ミゲル・アンヘル・アングーロを中心に中盤でもゲームを作れるビルドアップ性も確保する。

それでいてチーム全体がカウンターを常に意識していて、ボールを奪ったらまずピオホ・ロペスが動き出し、そこに連動して最適なボールが供給されていくという恐ろしくシステマチックでビルドアップ性のあるカウンターは、当時のリーガエスパニョーラではセルタと並んで新鮮な驚きをもたらしていました。

水曜日と木曜日の夜21時からキックオフされることになっていたメスタージャでのコパ・デル・レイ準々決勝第2戦、バレンシア対バルサの試合をサラマンカのプラサ・マジョール近くにあるバルでテレビ観戦していた僕は、バルサがバレンシアに翻弄されて成すすべもなく崩れていく様子を呆気にとられて眺めていました。

ジュセップ・グァルディオーラやルイス・エンリケ、リヴァウドやルイス・フィーゴ、そしてフランク・デ・ブールやロナルド・デ・ブールなどの名手達がイライラを隠そうともしない不愉快そうな顔でプレーし、アングーロやピオホのスピードに対応できないデ・ブール兄弟を実況が酷評するのです。

マジョルカでの活躍が評価されてレアル・マドリーに颯爽と移籍したはずのレアル・マドリーDFイバン・カンポはこのシーズン醜態に次ぐ醜態を晒しており、有料放送CANAL+のレビュー番組「El Día Después」や同じくCANAL+の人形劇風刺ニュース番組「Guiñol(ギニョール)」で連日バカにされ続けていました。

僕がコパ・デル・レイ準々決勝のバレンシア対バルサを見ていたバルにはバルサファンとバレンシアファンが集まっていたのですが、バレンシアファンのオヤジ達はサイドから中央に切り込んだアングーロやピオホにデ・ブール兄弟が蹂躙されるたびに嬌声を上げ、

「イバン・デ・ブール!!wwww」

「フランク・カンポ!!!wwww」

とバルサファンを煽りだす始末。

言われても仕方がないほどの抜かれ方を繰り返すオランダ代表の双子を擁護する余地もなく、バルサファン達は肩を震わせながらワイングラスを持つ手をプルプルさせ、バレンシアファンの煽りを無視することに全神経を傾けるばかりだったのです。

まだこの時19歳だったシャビ・エルナンデスがフィリップ・コクーに替わり交代出場しているのですが、11年後に彼がスペイン代表をワールドカップ優勝に導く立役者になるとは、当然誰も想像だにしていませんでした。

結局4−3で勝利したバレンシアはバルサをコパ・デル・レイから追い出すことに成功し、誇らしげな表情でメスタージャのファンに拳を突き上げるガイスカ・メンディエータの姿を見て、僕はその週末にカンプ・ノウで行われるリーグ戦がますます楽しみになったのでした。

ミッドナイト・エクスプレス

1999年2月27日は土曜日でした。

リーガエスパニョーラの1998−1999シーズン第24節で行われる10試合のうち、有料放送CANAL+が独占放送する注目カード「Partido Exclusivo」はカンプ・ノウで行われるバルサ対バレンシアになっており、キックオフは夜21時と発表されていました。

朝早くにサラマンカを出てマドリーを経由し、飛行機を使えば昼頃にはバルセローナへたどり着けることもなんとか調べていたのですが、それでは交通費が高くなってしまいバルセローナ現地でひもじい思いをすることになりかねません。

なんとか節約したいと思っていた僕に旅行代理店アルコン・ビアヘスのお姉さんが教えてくれたのが、サラマンカから北回りでアラゴン州を経由し、バルセローナへ向かう夜行列車でした。

今ではAVE(スペイン版新幹線)が開通したおかげで遥かに移動が楽になっているようですが、当時はまだサラマンカにAVEは通っておらず、もし仮に当時もAVEを使おうと思った場合はマドリーまで出る以外に手段はありませんでした。

夜行列車であれば金曜日に大学の授業を終えてから自宅に戻り、そこから準備をして出発しても時間には十分な余裕があります。

バルセローナへ到着するのも朝7時ぐらいなので21時の試合開始まで十分すぎるほど時間があるため、午前中に「タキージャ」と呼ばれるチケット売り場が開くと同時に試合のチケットを購入し、試合まで観光を楽しむこともできるというわけです。

帰りも夜行列車にすればホテル代も1泊分だけで済ませることができますし、あまり経済的に余裕のない大学生だった当時の僕にはとてもありがたいスケジュールでした。

夕方18時にスペイン国鉄RENFEのサラマンカ駅で長距離列車TARGOに乗り込んだ僕は、指定されたコンパートメントに腰を落ち着けました。12時間ちょっとの「深夜特急」の旅。そして初めて訪れるバルセローナの町とカンプ・ノウに思いを馳せながら、スーパーで買った飲み物やホームステイ先のお母さん、ピラールに作ってもらった特大のボカディージョ(バゲットサンド)を広げ、僕は誰もいない空間でくつろぐことにしました。

一路北に向かった僕が乗るTARGOは、北部向けの連結駅メディーナ・デル・カンポで一旦停車し乗り継ぎ客を更に乗せると、再びゆっくりと走り出します。

時間がすでに22時を過ぎた頃、列車は何もない荒野のような場所を走り続けており、真っ暗な窓の外を見ながら僕はぼんやりとバルセローナに到着してからの行動を頭の中で組み立てていました。

まずは朝食を食べてからカンプ・ノウまでの道のりを調べ上げ、チケット売り場が開くと同時にチケットを購入。可能であればバルサのユニフォームを1枚買ってから予約したホテルへチェックインしてから町を散策し、一休みしてから食料を調達してカンプ・ノウに向かう。

試合後はホテルでゆっくり寝て、翌28日にはサグラダ・ファミリアやカサ・バトリョなどの観光地を巡って夕方にバルセローナ・サンツ駅に向かい、帰りの夜行列車でサラマンカへ戻る。

サラマンカへ到着するのは月曜日の早朝6時頃になりますが、その時間なら8時半からの大学の授業には十分間に合う計算でした。

そんなことを考えているうちにどうやら僕は眠ってしまっていたようでした。

ドタンバタンという激しい金属音で僕は目を覚まし、外から入り込んでくる蛍光灯の真っ白な光の原因を探すと、窓の外では駅員が車両の連結をチェックしているのが見えました。

どこかで停車して他の列車と接続しているのだと気づいた僕は、時計を見るのも忘れて今自分がどこにいるのかを知るために底冷えのするホームに降りて駅名の書いてある看板を探すことにしました。

駅のプラットホームに備え付けられた温度計をたまたま見つけたのでまじまじと見てみたところ、その針は0度を切るか切らないかのあたりを指しています。

そして通りかかった駅員に「ここはどこですか?}と尋ねた僕に対して、駅員は面白くもなさそうな顔をしながら、ポケットに手を突っ込んだままめんどくさそうに顎で僕の頭上を示しました。

「そこに書いてあるだろう、読め」

とでも言いたかったのでしょう。

まあいいかと思いながら頭上を見上げたそこには無機質な看板がぶら下がっており、無味乾燥な白い看板に青い字でこう書いてありました。

「ZARAGOZA=サラゴサ」と。

1469年、当時のカスティージャ王国の女王イサベル1世と、アラゴン王国の国王フェルナンド2世が結婚することで成立したカスティージャ=アラゴン連合王国。

統一スペイン王国の基礎となる中世ヨーロッパ史の転換地点となった場所に、僕はまさにそのとき降り立っていたのです。

何も語ろうとせず、何も強調せずにただそこにあるRENFEのサラゴサ駅であたりを見回すと、遠くに薄っすらとライトアップされた大聖堂の尖塔が目に入りました。

ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール大聖堂。

紀元40年に聖母マリアがサラゴサにいたヤコブの目の前の柱(スペイン語でピラール)に降り立ったというキリスト教の伝説と、スペインの成り立ちを巡る大きな歴史の潮流を孕むサラゴサの町は、様々な意味で過去から現在にかけてのスペインにおけるカトリック文化に少なくない影響を与えてきました。

スペインに「ピラール」という名前の女性が比較的多く見られるのは、このピラール大聖堂の存在があるからだとも言われています。

そんなサラゴサがあるアラゴン州は、目的地であるバルセローナを抱えるカタルーニャ州に隣接する州です。

当時のアラゴン王国はカタルーニャ王国の統治も行っていました。つまり僕はイサベル1世が統治していたカスティージャ・イ・レオンからカタルーニャに向かっており、イサベル1世が結婚した当時にアラゴンとカタルーニャを手中にしていたフェルナンド2世、その2人の歴史の足跡をも辿ろうとしていたことになっていたわけです。

時計を見てみると時刻は午前3時を過ぎています。

目的地であるカタルーニャ州バルセローナまでは、あと約3時間半前後の場所まで僕はたどり着いていたのでした。

「もう出るぞ」

と列車のドアから車掌が僕に声をかけてくれました。

1人で歴史の流れに思いを馳せつつ興奮しながらも、僕は結局誰も乗ってこなかった自分のコンパートメントにいそいそと戻ります。思いがけず味わうことになった歴史の大きな流れを感じた興奮を抑え込むように、僕はコートを被ってもう一眠りすることにしました。

窓のカーテンを閉め忘れたのか、まぶたを刺す太陽の光を感じて目を覚ましたあと、窓の外を右から左へ流れていく暗いプラットフォームに、また一つの看板が目に入りました。

そしてそこにはこう書かれていたのです。

「BARCELONA-SANTS=バルセローナ・サンツ」

と。

僕が人生で観戦したサッカーの試合のうち、決して忘れることの出来ない体験の一つとなる1日が、もうすぐ始まろうとしていました。

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