イタリア誌「Undici」がアスパスを絶賛
イタリアのスポーツ&文化雑誌「Undici(ウンディチ=11という意味)」がセルタ・デ・ビーゴのスペイン代表FWイアゴ・アスパスを特集し絶賛しています。
Undiciは記事の中でアスパスについて「キャプテンであり、最高の選手。そしてセルタ・デ・ビーゴのシンボルである」と紹介。さらにはアスパスは「まさにガリシアの魂そのもの」と、デポルティーボファンが聞いたら発狂しそうなほどアスパスのことを絶賛しています。・・・いいぞもっとやれ。
さらに続けてUndiciの記事は
彼は他のどこでもなく今まさにホームにいる。ガリシアの港を見下ろし、バライードスを視界におさめることができるモアーニャの町で育ったセルタの”10番”は、他の誰よりも彼らの色「空色」に染まっているように感じられる
と、アスパスが生粋のガリシア人でありビーゴっ子であることを紹介。イタリアのスポーツ誌がよくぞここまで絶賛するものだと不思議な気もしますが、わずかな間だけアスパスがプレーしたイングランドでもアスパスの復帰とともにセルタが急激な復活を遂げ残留を遂げたことは報じられていました。
近年のヨーロッパでは珍しい浮上+残留劇だったことと、アスパスが苦節を経て地元に戻り、育ったクラブを救ったという劇的なストーリーがファンの心をとらえているということなのかもしれないですね。
記事内ではアスパスのイングランドでの挑戦にも触れており、2013年〜2015年の2年間はベストコンディションのルイス・スアレスの影に隠れ存在感を示すことができず、「まさに”エラスムス”(ヨーロッパの大学間で行われる短期留学制度)状態だった」と評されています。この点は否定できる人はいないでしょう。背番号こそ期待を込めて「9番」が与えられていましたが、2シーズンでプレミアリーグの成績としては14試合0得点に終わっています(FAカップでは1試合出場1得点)。
セビージャを経てセルタに復帰した後はノリート、グイデッティ、マキシ・ゴメスと毎シーズン前線でコンビを組む相手が変わっているにも関わらず3年連続でスペイン人選手の最多得点者賞「サラ賞」を受賞しているアスパス。
この実績について、記事を執筆したアントニオ・モスケッラ記者は
メッシがバルサにとってどれほど決定的であるかは議論の余地がない。しかしイアゴ・アスパスは少なくとも”彼のセルタ”においてメッシと同等の存在であり、セルタにとってのアスパスはバルサにとってのメッシと同じ存在だ。
私には彼がビーゴ湾を照らすビーゴ灯台(el Faro de Vigo)をも象徴しているように思えてならない。
と、ビーゴの地元紙FARO DE VIGOを持ち上げつつ、同時にアスパスこそが現在のビーゴとセルタ双方にとっての象徴だと強調しています。
ちなみにこの記事はUndiciの公式サイトでも読めますが、よほど最後のフレーズが気に入ったのかFARO DE VIGO本紙も記事に取り上げています。
相当嬉しかったんでしょうね。
イアゴ・アスパスの軌跡
セルタのファンなら全員。そしてスペイン代表に詳しいサッカーファンなら、今では大多数がその名を知っているアスパスですが、彼は今までどのようなキャリアを送ってきたのか深掘りしていきましょう。
名前 | |||
本名 | イアゴ・アスパス・フンカル Iago Aspas Juncal |
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基本情報 | |||
生年月日 | 1987年8月1日 | ||
国籍 | スペイン | ||
ポジション | FW | ||
背番号 | 10 | ||
利き足 | 左足 | ||
所属クラブ | 出場試合数 | ゴール数 | |
CDモアーニャ(ベンハミン) | 不明 | 不明 | |
1995〜2006 | セルタ・デ・ビーゴ (プレ・ベンハミン〜フベニール) |
不明 | 不明 |
2004〜2005 | ラピド・ボウサス(レンタル移籍) | 不明 | 不明 |
2006〜2009 | セルタ・デ・ビーゴB | 84 | 11 |
2008〜2013 | セルタ・デ・ビーゴ | 153 | 52 |
2013〜2015 | リヴァプール(イングランド) | 15 | 1 |
2014〜2015 | セビージャ(レンタル移籍) | 26 | 10 |
2015〜 | セルタ・デ・ビーゴ | 155 | 88 |
代表歴 | 出場試合数 | ゴール数 | |
2016〜 | スペイン代表 | 17 | 6 |
生まれ育った地元モアーニャのクラブ、CDモアーニャでサッカーを始めたアスパスは、8歳でセルタのカンテラ、プレ・ベンハミン(7〜8歳のカテゴリー)に入団。以前から育成面で定評のあったセルタのカンテラには、同時期に兄のジョナタン・アスパスもセルタ・インファンティル(13〜14歳のカテゴリー)に入団しています。
ベンハミン(9〜10歳)、アレビン(11〜12歳)、インファンティル(13〜14歳)、カデーテ(15〜16歳)、フベニール(17〜19歳)とカンテラ全てのカテゴリーを突破したアスパスは2006年のUEFAカップ、ニューキャッスル・ユナイテッド戦で当時の監督フェルナンド・バスケスによってトップチームに初招集。
その後2008−2009シーズンにぺぺ・ムルシア監督によってトップチームに登録され、プロ選手としてのデビューを果たします。2009年以降はコンスタントに出場機会を得られるようになり、2010−2011シーズンには完全にレギュラーポジションを確保。
兄のジョナタンが既に1999−2000シーズンにはセルタでプロデビューを飾っていたこと。そしてイアゴ自身もセルタ・アレビンでプレーしていたためジョナタンがベンチ入りした際には必ずバライードスで観戦。試合後のジョナタンにくっついていたイアゴ少年は今からは似ても似つかない内気な少年でした。
ところがその心は隅から隅まで根っからのセルティスタ。大のデポルティーボ嫌いとして知られるアスパスはレギュラー定着後の2011年11月13日。セグンダ・ディビシオンAに仲良く降格し昇格を目指していた宿敵デポルティーボ・ラ・コルーニャとのガリシア・ダービー直前に、
「Soy autentico “Anti Deportivista”. Fue el momento más divertido y genial por ver que Wagner se lo chocó a Diego Tristan!」
「僕は根っからの”アンチ・デポルティビスタ”なんだ。昔ワグネルがディエゴ・トリスタンを蹴り飛ばすのを見た時が最高の瞬間だったね!」
と発言。それ以降アスパスはラ・コルーニャのデポルティーボファンから例外なく激しい罵詈雑言と侮辱的なジェスチャーをいついかなる時でも浴びるようになります。が、本人は至って気にしておらずむしろデポルティーボファンを怒らせることをわざわざやりたがる癖があります。
ガリシア・ダービーでゴールを決めると不思議なリズムで身を揺らし、わざわざデポルティーボファンの眼の前までゆらゆらと歩いて行きバカにしたような薄ら笑いを浮かべながらセルタのエンブレムをつまみ、見せつける。もはやガリシア・ダービーの風物詩と化した光景です。
2011−2012シーズン、プリメーラ昇格の原動力となったアスパスは2013年にリヴァプールへ移籍しますが、ブレンダン・ロジャース監督の構想に全く入ることができず失意のうちにセビージャへレンタルされ、2015年までを過ごします。
2015−2016シーズンにセルタが完全移籍でアスパスを買い戻すと、水を得た魚のように復活。少年時代に兄と共にプレーしていたエドゥアルド・ベリッソ監督の元で次々とゴールを決め、2016−2017シーズンから2018−2019シーズンまで3年連続でスペイン人最多得点者となる活躍を見せ続けています。
2016年以降はコンスタントにスペイン代表に選出され、2018年FIFAワールドカップ・ロシア大会ではゴールも記録。今年2019年で32歳を迎えるアスパスですが、契約も延長し本人はセルタで引退する気満々のようです。
ファンもアスパスを溺愛しており、まさに相思相愛。
ここしばらくクラブの象徴的な存在が、元気な状態で引退を飾ることが少なかったセルタ。アスパスには是非キャリアの最後までセルタでプレーしてもらい、伝説としてバライードスのピッチに残って欲しいと願わずにいられません。